ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

不信者とは

 

 「不信者とつり合わぬくびきを負ってはならない。」と仰せられる神は、イスラエルの神です。イスラエルの神は聖なる方です。

 「わたし(イスラエルの神)が聖であるから、あなたがた(神の民イスラエル)も聖でなければならない。」(ペテロ第一1:16)

 

 不信者とは、創造主を信じない者です。全能の神を信じない者です。聖なる神を信じない者です。イスラエルの神のメシア(神の御子イエス・キリスト)を信じない者です。不信者は、裁き主である聖なる神を欺く者です。

 全能の神は、御自身の聖なることを、イスラエル(神の民)に現わされます。

 

 神が、奴隷の家エジプトからイスラエルを連れ出すために立てられた預言者モーセは、地上のだれにもまさって非常に謙遜な人でした。

 モーセの兄のアロンと姉のミリアムは、モーセの妻(エジプトの王の殺意からのがれミデヤンの地に逃げたモーセは、ミデヤンの祭司の娘を妻としていて、妻はユダヤ人ではなかった。)のことで、モーセを非難し、「主は、モーセとだけ話されたのではなく、アロンやミリアムとも話された。」と言って、指導者であるモーセを責め侮りました。モーセを侮ることは、実は、モーセを立てられた神を侮ることだったのです。

 

 すると、主は、アロンとミリアムに仰せられました。

 「わたしのことばを聞け。もし、あなたがたのひとりが預言者であるなら、主であるわたし(全能の神)は、幻の中でその者にわたしを知らせ、夢の中でその者に語る。

 しかしわたしのしもべモーセとはそうではない。彼(モーセ)はわたしの全家(ユダヤ民族)を通じて忠実な者である。

 彼(モーセ)とは、わたし(天の神)は口と口とで語り、明らかに語って、なぞで話すことはしない。彼(モーセ)はまた、主の姿を仰ぎ見ている。なぜ、あなたがた(アロンとミリアム)は、わたしのしもべモーセを恐れずに非難するのか。」(民数記12:6-8)

 

 主の怒りが彼ら(アロンとミリアム)に向かって燃え上がり、ミリアムはらい病にかかり、雪のように白くなりました。ふたりが悔い改め、モーセが執り成すと、主は、ミリアムを七日間、宿営の外に締め出し、その後に癒されました。

 

 こうして、神は、イスラエルの神は聖であり、神の聖を侮る者(汚す者)は宿営の外に締め出されることを、イスラエルに示されたのです。

 また、神御自身がイスラエルの中で最も忠実なしもべであるとお認めになられたモーセでさえ、神を聖としなかったという理由で、カナンの地に入ることが許されませんでした。

 

 神は聖なる方であり、御自分の民にも、聖であることを求められます。

 それゆえ、神を信じない不信者とのくびき(一つとなる)は、つり合わぬくびきだと仰せられます。

 不信者とは、神の福音を聞きながら、信じないことを、自ら選び取った人のことです。神のことばを信じない人です。聖なる神を侮る人です。神の聖を汚す者です。神に敵対する人です。

 

 神の御前で立てた誓いの契約を破棄することは、契約を破る者として責められます。離婚は、契約の神である聖書の神に認められることではありませんが、パウロが承諾した離婚があります。

 

 「(夫と妻のうち)もし信者でないほうの者が離れて行くのであれば、離れて行かせなさい。そのような場合には、信者である夫あるいは妻は、(婚姻の契約に)縛られることはありません。神は、平和を得させようとしてあなたがた(私たち)を召されたのです。

 なぜなら、妻よ。あなたが夫を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。」(コリント第一7:15,16)

 

 神は、御自分の民を守られます。聖なる民が汚れることを望まれません。信仰のくびきのつり合わないものとのくびきをその首から外されます。

 

 「去れよ。去れよ。そこを出よ。汚れたものに触れてはならない。

 その中から身をきよめよ。主の器をになう者たち。

 あなたがたは、あわてて出なくてもよい。逃げるようにして去らなくてもよい。

 主があなたがたの前に進み、イスラエルの神が、あなたがたのしんがりとなられるからだ。」(イザヤ52:11,12)

 

 信仰によって生きる人(主の器)は神に祈り、神の答えを待ち望みます。自分で判断して自分の力で動きません。神のことばと、神の時とを待ち望みます。

 なぜならば、「神があわてて出なくてもよい。逃げるようにして去らなくてもよい。」と言っておられるからです。

 主御自身がしもべの前に進み、脱出の出口を設け、また、敵が追って来ないように、神の御使いによって守られるからです。

 

 イエスは、弟子たちを遣わすときに、言われました。

 「どんな町や村に入っても、そこでだれが適当な人(神を受け入れる人)かを調べて、そこを立ち去るまで、その人のところに留まりなさい。その家に入るときには、平安(祝福)を祈るあいさつをしなさい。

 その家がそれ(神の祝福を受けるのに)ふさわしい家なら、その平安(御救い)はきっとその家に来るし、もし、ふさわしい家でないなら、その平安(祝福)はあなたがたのところに返って来ます。

 もしだれも、あなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、あなたがたの足の塵を払い落としなさい。(この町において、なすべきことは成し終えたのです。)

 まことに、あなたがたに告げます。ソドムとゴモラの地でも、その町よりはまだ罰が軽いのです。(キリストの福音の宣教を受け入れない町は、火で焼かれたソドムやゴモラの町の罪よりも重いのです。)

 いいですか。わたし(神の御子イエス・キリスト)が、あなたがた(キリスト信者)を(宣教に)遣わすのは、狼(羊を捕食する敵地)の中に羊(信者)を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のように素直でありなさい。(霊を見分けて、悪しき霊に騙されないで、神の霊には従順でありなさい。)

 人々には用心しなさい。

 わたしの名のために(神の御子イエス・キリストの御名を伝えるために)、あなたがた(信者)はすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。(不信者の迫害にあっても最後まで信仰を持ち続け、耐え忍びなさい。そうすれば、いのちの冠〈永遠のいのち〉が与えられるのです。)

 彼らがこの町であなたがた(信者)を迫害するなら、次の(ほかの)町にのがれなさい。というわけは、確かなことをあなたがたに告げるのですが、人の子が来るとき(人の子キリストが父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来られるとき)までに、あなたがたは決してイスラエルの町々〈十二部族のユダヤ人たちが住むところ)を巡り尽くせないからです。」(マタイ10:11-23)

 

 弟子たちに世界宣教を命じられたキリストですが、福音を聞いた者が救われるか救われないかの責任は、弟子たちに負わせられません。信じるか信じないかは、聞く者によることです。聞く者の自己責任ということです。

 

 「神が御子(イエス・キリスト)を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名(イエス・キリスト)を信じなかったので、すでにさばかれている。」(ヨハネ3:17,18)

 

 「悪いことをする者は光(真理の御霊)を憎み、その(悪い)行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。

 しかし、真理を行なう(神を恐れる正しい)者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。」(ヨハネ3:20,21)

 

 未信者とは、キリストの福音を聞いたことのない者のことです。キリストの救いのことばを聞いたことがないので、神の御救いの知らせを知らない者です。彼ら(未信者)を不信者とは呼びません。

 

 不信者とは、福音を聞きながら、自ら神のことばを退けること、また、神を信じないこと、救い主(神の御子イエス・キリスト)を信じないこと、助け主(真理の御霊)を信じないこと、を選んだ者です。