ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

十字架により律法は廃棄された

 

 イエスは言われました。

 「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。

 まことに、あなたがたに告げます。天地が滅び失せない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。

 だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、これを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。

 まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。」(マタイ5:17-20)

 

 イエスは、ユダヤ民族に与えられた律法と預言者の預言を成就するために来た、と言われました。成就とは成し遂げることです。完成することです。

 

 イエスの律法の理解は、ユダヤ人の教えよりも、厳格でした。

 律法の言うところの「人を殺してはならない。人を殺す者は裁きを受けなければならない。」を、イエスは「兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでも裁きを受けなければならない。兄弟に向かって『能無し。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『馬鹿者。』と言うようなものは燃えるゲヘナに投げ込まれます。」と言われました。(マタイ5:21,22)

 

 ユダヤ人は「人殺しをしてはならない。」と戒めながら守って来ました。人生のうちで、人を殺す人は少数です。神の律法を持たない異邦人でも、人殺しが裁かれるべき罪だと理解しています。だから、自分は人殺しなんて極悪な罪は犯していないと考えます。

 

 しかし、神の御子イエスは、兄弟に向かって腹を立てることも、人殺しと同じように裁きを受けなければならない、と言われるのです。兄弟に向かって「能無し」と言う罪は、家庭裁判所の調停ではなく、最高裁判所で裁判されるべき罪だ、と言われるのです。また、「馬鹿者」と言う者の罪は、永遠の火の池(地獄)に入るべき罪だ、と言われるのです。

 

 イエスの言われる基準で律法を理解するならば、すべての人は人殺しということになります。人殺しとは、肉体を殺し死なせることだけではなく、人を傷つけ、その人の価値を損なうような暴言をも指すようです。

 

 イエスは天から来られた神の御子です。神の基準をユダヤ人に教えました。人間の理解によって教えられた律法の基準とは比べものにならないような、誰も守ることのできない、厳しい基準です。

 

 兄弟に対してこのような者は罪を犯しているのであり、神は、その人が怒り憎んでいる兄弟の方ではなく、その人自身が牢に入れられる、と言われるのです。

 

 

 ユダヤ人は、「姦淫してはならない。」と言われる律法を聞いています。しかし、イエスは言われます。「だれでも情欲を抱いて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイ5:27,28)

 何ということでしょう。姦淫を行なわなくても、心の中で思い描いただけで、姦淫の罪を犯したと言われるのです。

 

 ユダヤ人の教えは、「だれでも、妻を離別する者は、妻に離婚状を与えよ。」と言います。

 

 「パリサイ人たちがイエスのみもとにやって来て、イエスを試みて、こう言った。『何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているのでしょうか。』

 イエスは答えて言われた。『創造者(神)は、初めから人を男と女に造って、「それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。」と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせられたものを引き離してはなりません。』

 彼らはイエスに言った。『では、モーセはなぜ、離婚状を渡して妻を離別せよ、と命じたのですか。』

 イエスは彼らに言われた。『モーセは、あなたがたの心がかたくななので、その妻を離別することをあなたがたに許したのです。しかし、初めからそうだったのではありません。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、不貞(不倫等)のためでなくて、その妻を離別し、別の女を妻にする者は姦淫を犯すのです。』(マタイ19:3-9)

 

 妻の不貞が理由で離婚することは、モーセが許したことでした。不貞以外の理由で離婚することには言及されていません。

 イエスは言われました。妻の不貞以外の理由で妻を離別して、別の女を妻にする者は姦淫を犯すのだ、というのです。妻と別れて、新しい妻と結婚したつもりが、神はそれを結婚と認めておられないのです。婚姻届けを出しているので、世間では結婚と認められますが、神は、それを姦淫の罪に定められるのです。

 また、不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのであり、また、不貞以外の理由で離別された女と結婚すれば、姦淫を犯すのだ、とも言っておられます。

 

 パウロは言います。

 「妻は夫と別れてはいけません。もし別れたのだったら、結婚せずにいるか、それとも夫と和解するか、どちらかにしなさい。また、夫は妻を離別してはいけません。」(コリント第一7:10,11)

 「信者でない配偶者があなたの信仰を承知している場合は離婚してはいけない。しかし、信者でないほうの者が、離れて行くのであれば、離れて行かせなさい。」とも言っています。

 

 神の律法の基準は、人間が考えるよりもはるかに厳格で、一点の曇りもないものなのです。

 

 この厳格な律法は、天地が滅び失せない限り、一点一画でもすたれることはありません。神の基準が変わることはないのです。モーセがしたように、頑なな民に合わせて緩められるものではありません。全部のことは神の基準において、はかられるのです。

 

 しかも、「律法に厳格な律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れない。」とまで言われました。

 

 モーセが緩めた律法すら完全に守ることはできません。律法学者やパリサイ人の義に達する(律法学者やパリサイ人のように律法を守る)ことでも、ほとんどのユダヤ人が到達できないのに、イエスは、律法学者やパリサイ人の義にまさる義を要求されます。

 だれが救われるのでしょう。神の律法は、罪の中でうめく人々の心を刺し通します。神は、契約を与えた民(ユダヤ民族)を苦しめるために律法を与えられたのでしょうか。

 

 神は、土から造られた人間に、神の義を得る行ないの歩みを期待しておられません。できないのです。なぜならば、守りたいと願っても、内には、罪の律法(肉欲)があるのです。神の律法を守るためには、まず、罪の律法を取り除かなければならないからです。

 

 泥水で、一生懸命、衣を洗っているようなものです。汚れを取り除くはずがいつまでたっても、白くなることがありません。生まれたときから泥水に浸かっているので、白い状態というのが、本当はわかっていないのです。死の定めを背負って生まれているので、永遠に生きるということが、皆目わからないのです。しかし、死ぬのは嫌です。

 

 「私は、本当にみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7:24)

 

 アブラハムが義とされたのは、神を信じたからです。神のことばを信じたアブラハムは、その信仰が義とされたのです。行ないによって義とされる者はだれもいません。

 

 律法の行ないによって義を求めた律法学者やパリサイ人は、神の基準の義に到達することはありませんでした。彼らの罪は残されたままです。

 

 神は、まず、人から罪を取り除くことを求められました。罪に浸る人は、罪と分離することができません。罪を取り除くことは無理です。

 

 神は神のひとり子に肉体を造り、罪の贖いの子羊としてイスラエルに遣わされました。子羊の血は罪の贖いの代価です。子羊の血は、罪人と罪を分離する力があります。罪の泥水で洗っていた衣を子羊イエスの血で洗うと、真っ白になるのです。

 神の子羊イエスは罪過の無い方です。罪のない全き人でした。善悪を知る知識の木の実を食べる以前のアダムのように神のことばとともにあり、神のことばのうちにある、しみも傷もしわもない完全な人でした。

 

 完全な人の血だから、罪を取り除く力があるのです。完全な贖いの血は、いのちです。死なないいのちです。罪がないからです。罪がないならば、罪の報酬の死を受けることがありません。罪のない者は死にません。

 

 人は、死なないいのちのキリストの血を受けるならば、生きるのです。十字架で流された子羊イエスの贖いの血は、律法の奴隷を解放してくださいました。奴隷のくびきを砕いてくださいました。律法の外にいる取税人や遊女の罪のくびきも砕き自由とされたのです。

 

 「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。」(ガラテヤ5:1)

 

 神は、律法を神の御子キリストにおいて完成させて、律法のくびきを解除されました。律法はキリスト・イエスが現われるまでの養育係でした。キリストが現れると、養育係の律法の役目をご自身において完了させて、生ける神の御霊、生かす御霊を与えられました。

 

 律法は、律法を行なうことによって義を求めますが、生かす御霊は、神の御子イエス・キリストを信じる信仰によって義とされます。

 

 「十字架の主を信じる私たちは、信仰により、御霊によって、義をいただく望みを抱いています。」(ガラテヤ5:5)

 アブラハムは主を信じた。主はそれをアブラハムの義と認められたのです。私たちも、主イエス・キリストを信じた。主はそれを私たちの義と認めてくださるのです。

 

 神の厳格な律法を完全に守られた神の子羊イエスは、罪人を罪の縄目から解放し、律法の奴隷に自由を得させるために、十字架で血を流されたのです。

 キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。

 「ですから、あなたがたは、イエス・キリストへの信仰にしっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」(ガラテヤ5:1)