「神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
神は、ただ御心のままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。
それは、神がその愛する方(ひとり子)によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」(ガラテヤ1:3-6)
神が神のひとり子に肉体を造り、アブラハムの神、まことの生ける神に仕えるイスラエルに遣わされたのは、神の子羊キリスト・イエスの血で私たちの魂を悪魔の支配から買い戻して、神の御前に立つ(つまり、罪のない聖なる者として聖なる神の前に立つことが許される)傷のない者にしようとされたからです。
神は、私たちを世界の基が置かれる前から、すなわち、天地創造以前、アダムもエバも造られていなかったときから、神の御子キリストのうちに選んでおられ、ただ御心のままに、私たちを救い主イエス・キリストによって、御自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられた、と聖書は言います。
神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。イエス・キリストというひとりの人物によって、父なる神を知らせ、天の御国を知らせ、永遠のいのちを得させてくださるのです。
神を父として知らされたのは、私たちが子となるからです。天の御国の聖さを知らされたのは、私たちが聖く傷のない者となることを慕うためです。永遠のいのちを知らされたのは、神のひとり子イエス・キリストを信じる信仰を得させるためです。
神は、神の御子イエス・キリストを信じる私たちに、聖霊を授けてくださいました。天にあるすべての霊的祝福を目で見、耳で聞き、味わうためです。
神は、御心のままに、私たちをイエス・キリストによって御自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。
私たちは、この神の御子イエス・キリストのうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。私たちが、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」と神の仰せられる神の子羊キリスト・イエスの御救いの御業をほめたたえ、神の栄光をほめたたえる者となるためです。
神は、あらゆる知恵と思慮深さをもって、御子イエス・キリストの御救いの恵みを私たちの上に溢れさせ、御心の奥義を私たちに知らせてくださいました。あらゆる不思議や多くの預言者、律法、詩篇、御使いや聖書によって、御心の奥義を知らせてくださいました。
「それは、神が御子においてあらかじめお立てになった御計画によることであって、時がついに満ちて、この時のための御心が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって一つに集められることです。
このキリストにあって、私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、御心により御計画のままをみな実現される方(神)の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。
それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえる者となるためです。」(エペソ1:9-12)
キリストにあって、私たちは、私たちの救いの福音を聞き、それを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は、私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。
これは神の民(神の子どもたち)の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。(エペソ1:13,14)
神は、御心のままに、御自分の子にしようと定めておられた人々を、生きている者も死んだ者もキリストにあって一つに集められます。これは、神の子どもとされた人々によって、神の栄光がほめたたえられるためです。
昨今、日本では、台風や大雨に見舞われて、山は崩れ、川は氾濫し、大きな被害を被っています。
山の多い日本では、大雨で地盤が緩み、木々が倒れ、土砂崩れが起きます。川の濁流は、倒木を押し流します。
祈りの中で、多くの木々を押し流す土色の川の流れが見えました。濁流の土色の川の流れの奥の方、川上に何か白い物が見えました。その白い物が次第に広がり、川上の方は白い流れとなりました。
私は、白い物は、生ける川の水だと思いました。濁流は、人間の目に見えるこの世のもの、白い流れは、人間に隠された神のもの。神は、この大雨の被害の中で、永遠のいのちを得る神の子どもたちを御自分の方に向けさせようとしておられるのだ、と思いました。
それは、かつて信仰を告白しながら、信仰から離れた人かもしれません。あるいは、まだイエス・キリストを知らない人かもしれません。
この世の財産が取り去られ頼みとするもの、信頼していたものを失った人に、永遠の財産(神の御子キリストにある永遠のいのち)を得させるためでしょう。
この大雨は、霊を目覚めさせ、本当に価値あるもの(永遠のいのち)を得させるための仕業のように思いました。
終わりの日が近づいています。そこには、神が救い(神の子ども)に定めておられる人々がいるのです。日常生活の延長では目覚めることのなかった彼らを正気に立ち返らせるために許されたのでしょう。
もう一つ、幻が見えました。
土砂崩れした山肌です。その部分はすっぽり崩れ落ちて崖のようになっています。その崖のように見える山肌に一本の糸のような一筋の滝が流れ落ちているのです。いのちの水の川です。
土砂崩れする前の山にいのちの水の川(キリストの御救いの福音)が流れていたのでしょうか。目には見えないけれども、確かにいのちの水(生ける水の川)は日本中の地に流れていたでしょうが、飢え渇きのない人々は飲むことも見出すことも探すこともなかったのです。
神は、地を割り、山を崩し、川の暴走を許すことで、人々の心の平安を取り去り、災害の中で人々に出会われるのでしょうか。彼らにいのちの水を届けるために、霊の目を閉ざすこの世のものを害しておられるのかも知れません。
日本には、まだまだ多くの神の子どもに定められた人がいると思います。神は、彼らの心の目を開き、神の御救いを得させるために、人間の望まない方法を用いてでも、決行されるのでしょう。
彼らは、神の栄光をほめたたえる人々なのです。
洪水は家を流し、家財道具など生活物品を奪い去りますが、この世の頼みと平安を取り除いた後で、神は、彼らに魂の平安を用意しておられるのでしょう。物品や目に見えるものではなく、霊的精神的安心と、魂の安らぎと、帰るべき永遠の故郷を彼らのために用意されているのでしょう。
神は、神の子どもたちに、生ける水の川からいのちの水を飲ませたいのです。人々は、災いの中で、不安とともに生ける水を飲むのでしょう。
願わくば、災害によって目が覚める者ではなく、今の時代を知り、神を求める者であってほしいと思います。
神は、御自分の子にしようと、愛をもって定めておられるのです。世界の基の置かれる前から、キリストのうちに選んでおられるのです。
神がその人の名を呼んで、御自分のみもとに帰るのを待っておられるのです。