ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

父の願ったとおりの子

 

  イエスが宮に入って教えておられると、祭司長、民の長老達がイエスのみもとに来て言った。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。誰が、あなたにその権威を授けたのですか。」

 

  イエスは言われた。

  「ところで、あなたがたは、どう思いますか。ある人にふたりの息子がいた。その人は兄の所に来て、『今日、葡萄園に言って働いてくれ』と言った。兄は答えて『行きます。お父さん』と言ったが、行かなかった。

  それから、弟の所に来て、同じように言った。ところが、弟は答えて『行きたくありません』と言った。しかし、弟は後から悪かったと思って出かけて行った。

  ふたりのうちどちらが、父の願ったとおりにしたのでしょう。」

 

  彼らは言った。「あとの者です。」

 

  イエスは彼らに言われた。

  「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女達の方が、あなたがたより先に神の国に入っているのです。と言うのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女達は彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。」

 

  祭司長や民の長老達は、民に教える立場の人です。彼らは聖書の教えに精通している者という自負がありました。正規の学びをしていないナザレの田舎者のイエスを神の子羊キリストと教える、ヨハネの教えを信じるわけにはいきません。

 

  何故、神に仕え、民を指導する立場の自分達が、新しい教えを受けなければならないのか。知識のない民は、やすやすと信じてしまうが、私達はそうはいかない。律法の教えから離れてはいけない。モーセの律法を守ることが神の民イスラエルに大切なことだ。新しい教えは、危険である。

 

  イエスが神から来たという保証はどこにあるのか。自分達と同じ人ではないか。貧しい大工のせがれなのだ。彼に何の権威があると言うのか。

 

  祭司長達は、イエスを信じることが出来ません。立場を守るという意味ではなく、本当に信じられないのです。彼らの義はモーセの律法でした。律法の下にいることが正しいのです。

 

  預言者ヨナは、ニネべに行って神のことばを叫ぶように主に命じられた時、それを避けて反対方向に逃れたのです。嫌です、と断ったのではなく、従いたくなかったので、主の御顔を避けたのです。

 

  しかし、神に打たれて海に頬り出され、もがき苦しみ、大魚の腹の中で悔い改め従いました。

 

  イエスの話された弟息子は「行きたくありません」と言ったが、あとで悪かったと思い父の願った通りの事をしたのでした。ヨナも弟息子も反抗的な人に見えますが、最終的には従っています。

 

  兄息子は、「行きます。お父さん」と大変良い返事をしましたが、父の願う事はしなかったのです。返事の良い子は父の心を喜ばせますが、天の父の喜ばれることは、返事の良いことではなくて、行うことです。

 

  天の父はこの世の父とは違います。言いつけた事を行う者が天の父を満足させるのです。いやいやながらやったとしても、やり終える事が良いことなのです。愛想の良いことや礼儀正しいことではなく、父の御心通りであることが天の父に受け入れられることなのです。

 

  神の国は、神に主権があり、神の御心がなる世界です。神の国に入るには、神を信じる事と、神に従うという事が必要です。

 

  祭司長と民の長老達は、イエスを信じません。どんなに丁重に神の奉仕に仕えていても、神が遣わされた神のひとり子イエスが信じられないというのは、神の国に相応しくありません。

 

  神は、御自身を知らせるために、ひとり子に肉体を造って人の子イエスとして、地上に遣わされたのです。人がイエスを見て、父なる神を知るためでした。イエスを拒絶する事は、イエスを遣わされた神のみ旨に逆らうことなのです。イエスを信じないという事は、神を信じないという事です。

 

  父の名で来た息子のイエスをないがしろにする事は、イエスだけではなく、父を侮辱することになります。

 

  イエスは言われました。「あなたがたに告げます。取税人や遊女達の方が、あなたがたより先に神の国に入っています。」

 

  取税人や遊女とは罪深い人達です。神の律法の違反者です。聖なる神の民イスラエルから排除すべき、汚れた罪人です。それなのに、聖なる神から遣わされたというイエスが、これらの罪人が神の国に入ると言うのです。しかも、祭司長達よりも先に入っているとは、何ということを言うのですか。やっぱり、イエスは神から来た人ではない、と確信したことでしょう。

 

  何の権威もないこの男が、代々神に仕える祭司に向かって、なんていう事を言うのか。彼らの感情は逆巻き、ますますイエスに敵対したでしょう。

 

  イエスを地上に使わされた天の神の御心は、イエスを信じることなのです。取税人であろうと遊女であろうと構わないのです。何故ならば、すべての罪は子羊イエスの十字架で流される血によって赦され、聖められるからです。

 

  聖なる神の民と信じて高ぶっているユダヤ人には受け入れがたいことです。神の律法を堅く守る忠実なユダヤ人である自分達が蔑んでいる罪人や、無割礼の異邦人の方が先に神の国に入るとはあってはならないことです。

 

  ヨハネの教えを聞いたすべての民は、取税人達さえ、ヨハネのバプテスマを受けて、神の正しいことを証明したのです。これに反して、パリサイ人や律法の専門家達は、ヨハネからバプテスマを受けないで、神の自分達に対する御心を拒みました。

 

  神を教える立場の人が、神の御心を拒んだのでした。神の御心はイエスを信じることです。イエスを信じることが、神の御心を受け取ることです。神は、イエスを信じる者を神の国に集められるのです。

 

  異教徒でも、イエスを信じ悔い改めるならば、神の国に入ります。その人は、神の正しいことを証明したのです。神が遣わされた贖いの子羊イエスを信じたからです。

 

 

    著書 『人はどこから来てどこへ行くのか』鍵谷泰世著 (青い表紙の本)

    アマゾンkindle、紙書籍(オンデマンド印刷)、楽天kobo