ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

律法は後に来るすばらしいものの影

 

 神がイスラエルにお与えになった律法は、後に来るすばらしいもの(永遠のいのちと御救い)の影であって、実物ではありませんでした。

 実物ではないので、律法は、年ごとに絶えずささげられる生贄によって神に近づいて来る人々を、完全にすることができませんでした。

 「もし、それができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、したがって、献げ物をすることは、やんだはずです。」(へブル10:2)

 

 ところが、年ごとの生贄によって、イスラエルは、年ごとに罪が思い出されるのでした。年ごとにささげなければならない雄牛とやぎの血は、完全に罪を除くことができません。

 

 神がイスラエルに遣わされたキリスト・イエスは、地上の世界に来て、こう言われました。

 「あなた(神)は、わたし(神のひとり子)のために、からだ(人間と同じ肉体)を造ってくださいました。

 あなた(神)は(イスラエルが律法に従って神にささげる神の怒りをなだめるための)全焼の生贄と(イスラエルが律法に従って神にささげる罪の贖いによって罪の赦しを得るための)罪のための生贄とで満足されませんでした。

 そこでわたし(神のひとり子)は言いました。

 『さあ、わたし(神の御子イエス)は来ました。聖書のある巻(モーセの律法、預言者、詩篇)に、わたし(救い主キリスト)について記されているとおり、神よ、あなたの御心を行なうために。』(へブル10:5-7)

 

 イエスは、初めには、「あなた(神)は、生贄と献げ物、全焼の生贄と罪のための生贄(すなわち、律法に従ってささげられる、いろいろの物)を望まず、またそれで満足されませんでした。」と言い、また、「さあ、わたし(イエス)はあなた(神)の御心を行なうために来ました。」と言われたのです。

 

 神のひとり子イエスは、律法(モーセの律法、預言者、詩篇)により記されたところに従ってイスラエルに来られ、「神の御心を行なうために来ました。」と言われました。

 すなわち、神の御心を行なう神のひとり子(神の子羊イエス)が来られたことで、神の御心を満足させることのできなかった前者のもの(全焼の生贄と罪のための生贄などの律法に従ってささげられる、いろいろの物)を廃止されたのでした。

 

 神は、神が遣わされた後者(神の子羊イエスによる罪の贖いの血)を立てるために、前者(雄牛とやぎの血)を廃止されました。

 律法は、神がモーセを通して命じられた「神がユダヤ人の中に遣わされるもうひとりの預言者(キリスト)に聞き従わなければならない。」の律法で完成するのです。

 

 イスラエルの最初の王サウルは、神が聖絶せよと仰せられたのに、肥えた羊や牛の最も良いもの、子羊とすべての良いものを惜しみ、これらを聖絶するのを好まず、ただ、つまらない、値打ちのないものだけを聖絶しました。

 預言者サムエルは、サウル王に言いました。「あなたはなぜ、主の御声に聞き従わず、分捕り物に飛びかかり、主の目の前に悪を行なったのですか。」

 サウル王は答えました。「主に、生贄をささげるために、聖絶すべき物の最上の物として、分捕り物の中から、羊と牛を取って来たのです。」

 

 預言者サムエルは、サウル王に神のことばを告げました。

 「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼の生贄や、その他の生贄を喜ばれるだろうか。

 見よ。聞き従うことは、生贄にまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。

 まことに、背くことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。

 あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」(サムエル第一15:22,23)

 

 主に聞き従わないことは、善悪を知る知識の木の実の呪いです。神の御声に聞き従わず、自分の良いと思うところに従い、自分を主として自分で判断し、神である主にへりくだらない者です。聖なる神を侮る罪です。神の聖を汚す罪です。

 

 神が喜ばれるのは、全焼の生贄やその他の生贄ではなく、主の御声に聞き従うことだ、とサムエルは言いました。

 神の御声に聞き従うことは、神のために行なう犠牲や生贄にまさるのです。神の御声に耳を傾けることは、神が最も喜ばれる雄羊の脂肪よりも、神が望まれることなのです。

 

 イエスをもてなすことに心がいっぱいで、せわしく働くマルタが、イエスの足元でイエスのことばに聞き入っている妹マリアに苛立ち、イエスに訴える場面で、イエスの答えはこうでした。

 「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリアはその良いほうを選んだのです。彼女から取り上げてはいけません。」(ルカ10:41,42)

 

 イエスのために心を砕いて奉仕することよりも、イエスのことばに耳を傾けることの方が、大切なことだと言われたのです。

 イエスは、サムエルが言った神のことばと同じことをマルタに言われたのでした。

 

 神は、生贄や犠牲よりも、主の御声に聞き従うことを喜ばれます。その人の心が神にあるからです。その人の主は自分自身ではなく、神御自身なのです。神を第一とするあり方こそが神の喜ばれることです。

 

 「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。」(ローマ11:36)

 神から発せられたことばに聞き従い、その通りになることが、神の栄光であり、そのことが成就するとき神に栄光が帰されるのです。人が自分ですることは、たとい、神のためであっても、自分の栄光となるのです。

 

 神に聞き従うことは生贄にまさります。神に耳を傾けることは、どんな献げ物よりも神の御心を満足させるのです。

 神のことばに聞き従わないことは、神に背く罪であり、それは神以外のむなしいものを頼みとする占いの罪です。また、神に従わないことは、神に逆らう偶像礼拝の罪、生ける神を退けて死んだ神々につき従う罪です。

 

 神は、神がイスラエルにお与えになった律法は、後に来るすばらしいものの影であることを、イスラエルに秘めておられました。

 影であるならば、民が本気で従おうとしないからです。神は、律法を与えたモーセに、実体の現われを民に明かしておられました。影の本体です。

 神は、ユダヤ人の中から起こるモーセのようなもうひとりの預言者に聞き従うように、とイスラエルに命じられました。この預言者こそが、まことの生きた律法です。神は、律法の実物に従うことを命じられました。

 すなわち、救いは、律法の奴隷とする文字の律法にあるのではなく、また、イスラエルが毎年ささげる生贄にあるのではなく、神がお与えになる天から遣わされる神の子羊の贖いの血によって世の罪を取り除き、罪の呪いと裁きの恐怖から救い出し、イスラエルを永遠の安息に入れる、神の子羊イエス・キリストにあるからです。

 

 奴隷の生活から救い出すモーセのようなもうひとりの預言者は、イスラエルのメシアなのです。罪の呪いに怯える律法の奴隷から解放し救い出してくださるキリストです。

 このキリストの出現こそが、アブラハムの子孫イスラエルに約束された祝福であり、聖なる神の民の契約です。

 

 神は、イスラエルに神の子羊キリスト・イエスをお与えになり、年ごとに絶えずささげられる生贄、すなわち罪を完全に取り除くことができない律法(実物の影)を廃止されました。

 神の子羊イエスを十字架につけ、ただ一度で罪の贖いを成し遂げられた神の子羊イエス・キリストの血は、邪悪な良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とされるのです。

 

 律法に従って生贄をささげることよりも、主の御声に聞き従うことを喜ばれる神が、御自身の望まれるまま、文字の律法を廃止し、生ける神のことば(神の御子イエス・キリストのことば)に聞き従うことを要求されます。実は、これこそ(神の御子キリスト)が、律法の実物なのです。

 イエス・キリストのことばに耳を傾けて、キリストのことばに聞き従う者は、律法を完成されたキリストによって律法を守った者に数えられ、律法の下にいる者よりも、神の御心を満足させ、神の喜ばれる者とされるのです。

 

 なぜならば、神は、神のひとり子キリスト・イエスを信じる者に、聖霊を授けられて、キリストの御霊によって、彼らの心に生きた律法を書き記されるからです。真理の御霊がキリストのことばを思い起こさせ、真理を教え、神の喜ばれる歩みを助け、永遠のいのちを得るいのちの道に導いてくださるのです。

 

 「わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。」(エレミヤ31:31)

 「わたし(神)は彼ら(イスラエル)の主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。―主の御告げ。―彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。―主の御告げ。―わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

 人々はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『主を知れ。』とは言わない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」(エレミヤ31:32-34)

 

 新しい契約は、イスラエルのメシア、すなわち神のひとり子イエス・キリストによって与えられました。

 神の子羊イエス・キリストが、律法の実物であり、目に見えない神を目に見える姿で現われてくださった神のひとり子であり、神の契約の御救いの実体であり、永遠のいのちなのです。