ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

神がユダヤ教徒に用意された新しい契約

 

 「初めの契約にも礼拝の規定と地上の聖所とがありました。

 幕屋が設けられ、その前部の所には、燭台と机と供えのパンがありました。聖所と呼ばれる所です。

 また、第二の垂れ幕のうしろには、至聖所と呼ばれる幕屋が設けられ、そこには金の香壇と、全面を金でおおわれた契約の箱があり、箱の中には、マナの入った金の壺、目を出したアロンの杖、契約の二つの板がありました。また、箱の上には、贖罪蓋を翼でおおっている栄光のケルビムがありました。

 幕屋には、祭司たちがいつも入って礼拝を行なうのですが、第二の幕屋には、大祭司だけが年に一度だけ入ります。そのとき、血を携えずに入るようなことはありません。その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のためにささげるものです。」(へブル9:1-7)

 

 神の民イスラエルには、神を礼拝する幕屋(神殿)がありました。そこで、レビ族の祭司たちが礼拝を行なっていました。

 それは、神が地上に用意された聖所です。聖所の奥には第二の垂れ幕があって、第二の幕屋(至聖所)には、大祭司だけが年に一度だけ入ります。至聖所に入る時には必ず、羊の血を携えて行きました。

 その至聖所に、神の箱がありました。神とイスラエルとの契約の箱です。イスラエルが生けるまことの神の民であることを裏づけるものです。

 契約の箱の中には、イスラエルが奴隷の家エジプトから出てカナンの地に向かう道中の荒野の四十年間、神が百万人以上のイスラエルの民を養うために、天から降らせられたパン(マナ)がおさめられた「金の壺」、十二部族の目の前でレビ族(レビ人)が神に仕える民として選ばれ、アロンとアロンの子孫が大祭司として神に立てられたことを証明する「芽を出したアロンの杖」、神が二枚の石の板に御自身の指で書かれたモーセの十戒、すなわち神と契約を結んだ民としてイスラエルが守るべき掟の書かれた「契約の二つの板」が入っていました。

 

 契約の箱の上には、贖罪蓋を翼でおおっている栄光のケルビムがありました。

 かつて、神のことばに背き神のことばから外れた人(アダムとエバ)を不適格なものと定め、エデンの園から追放されました。罪を犯した人がいのちの木からも実を取って食べ罪あるままで永遠に生きないようにと、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビム(守護する御使い)と輪を描いて回る炎の剣を置かれました。

 

 イスラエルに与えられた契約の箱の上にも、いのちの木への道を守るために置かれたと同じケルビムがありました。契約の箱は、神が定められた祭司以外のものが触れると、その者はただちに絶命しました。

 いのちの木に等しい聖なるものだったのです。モーセは、契約の箱の上にある贖いの蓋の二つのケルビムの間から、モーセに語られる神の御声を聞きました。(民数記7:89)

 神は、イスラエルの中にあって、契約の箱とともにおられたのです。

 

 至聖所には、その年の大祭司だけが入ることが許されました。子羊の血を携えて入って行くのです。その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のためにささげるものでした。

 

 この幕屋が存続しているかぎり、まことの聖所は明らかにされません。また、幕屋での礼拝によっては、礼拝する者の良心を完全にすることはできません。罪の贖いをしても、また、新たな罪を犯して、その罪の贖いが必要になるのです。それゆえ、毎年、その年の大祭司が血を携えて、至聖所に入りました。

 

 しかし、今、幕屋は存続していません。神の契約の箱もありません。契約の箱は、南ユダがバビロンに捕囚される前に失われていました。

 

 神は、幕屋に代わるものを用意しておられました。地上の幕屋(聖所)ではなく、まことの聖所を開かれるのです。

 

 神はイスラエルに約束しておられたキリスト(神のひとり子イエス)をイスラエルに遣わされました。

 「キリストは、来ようとしている善き事(神の国)の大祭司として来られ、手で造った物ではない、この世に属さない、さらに偉大な完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、至聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(へブル9:11,12)

 

 イエスが十字架につけられると、十二時頃から三時まで、太陽は光を失い、全地は暗くなり、神殿の幕は真二つに裂けました。

 「イエスは大声で叫んで、言われた。『父よ。わが霊を御手にゆだねます。』こう言って、息を引き取られた。」(ルカ23:46)

 

 マタイは、このように記述しています。

 十字架のそばには多くの人々がいました。そこに立っていた人々が「私たちはエリヤが助けに来るかどうか見ることとしよう。」と言っていました。

 「そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。

 すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。

 また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都(エルサレム)に入って多くの人に現われた。

 百人隊長および彼といっしょにイエスの見張りをしていた人々は、地震やいろいろの出来事を見て、非常な恐れを感じ、『この方はまことに神の子であった。』と言った。」(マタイ27:50-54)

 

 神の子羊イエスのからだが十字架につけられ息を引き取られると、なんと、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けました。上から裂かれたのです。神の御手が、人の手で造った神殿の幕を裂かれたのでした。

 

 キリストは、来ようとしている神の国のために天のまことの聖所で仕える大祭司として来られたのです。

 まことの聖所で仕える大祭司として来られたキリストは、傷のないご自身の血を携え、死んだ肉体(古い幕屋)を脱ぎ、神の御霊による新しい復活のからだで、天の至聖所に入られ、神にお献げになられました。

 

 地上の神殿の幕が裂けたのは、神が、地上の幕屋で仕えるレビ族の祭司の時代の終わりを告げ、天のまことの聖所で仕えるキリストの時代に移行したことを明かしておられたのです。

 

 前の幕屋では、やぎや雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものとしました。

 「まして、神の御子キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになった神の子羊(キリスト・イエス)の血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」(へブル9:14)

 

 天の聖所で仕えるキリストが現われたことにより、まことの聖所への道が開かれました。地上の神殿の幕が真二つに裂かれたのは、人の手で造ったのではない、まことの聖所に、全き子羊(イエス・キリスト)の血を携えて入られる、とこしえの大祭司キリストが現われたからです。

 

 「キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。」(へブル10:24)

 地上の聖所で仕える祭司はレビ族から出ましたが、天にあるまことの聖所で仕える祭司はメルキゼデクに等しいと呼ばれる祭司であり、ユダ族から出られた「ダビデの子キリスト」です。

 

 メルキゼデクに等しい祭司キリストは、年ごとに自分の血ではない血を携えて聖所に入る地上の大祭司とは違って、ただ一度、ご自分の血を携えてまことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。

 

 「キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身を生贄として罪を取り除くために、来られたのです。

 そして、人間には、一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげて永遠の罪の贖いを成し遂げるために来られ、二度目には、キリストを待ち望んでいる人々の救いのために来られます。」(へブル9:26-28)

 

 レビ族の祭司による以前の礼拝は終わりました。とこしえの大祭司キリストは、天にいて、神と人との仲介をしておられます。イエス・キリストの御名による祈りと御霊による礼拝の新しい契約の時代となったのです。

 

 とこしえの祭司キリストは言われます。「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。父(神)は、霊とまことによって父を礼拝する礼拝者を求めておられます。」(ヨハネ4:24、23)

 

 霊とまことによって礼拝する礼拝者とするために、神は、キリストにあって、イスラエルに聖霊をお与えになります。キリストがお与えになる「生かす御霊」を受けたひとりひとりが「聖霊の宮」となり、「神の神殿」となるのです。

 

 一度目は、イスラエルの罪の贖いのために来られたキリストが、二度目には、死から甦られた栄光の主、すなわち永遠に生きられるキリスト・イエスの再臨、また、イスラエルのメシアのを待ち望む人々の救いのために来られることが定められています。

 

 キリストは、預言者の油、祭司の油、王の油が注がれた者です。

 イエス・キリストは、天に入られてまことの聖所で仕えるとこしえの祭司であり、使徒ヨハネに世の終わりに起こる黙示をお告げになられた預言者であり、ご自身を待ち望む人々を救い、平和な世界を治めるイスラエルの王なのです。

 

 神は御自分の民、ユダヤ教徒が、キリスト・イエスが与える御霊を受けて、霊とまことによって霊なる神、生ける神を礼拝する真の礼拝者となるように、イスラエルに神の御子キリストと、聖霊(神の御霊)とをお与えになられました。

 イエス・キリストこそが、ユダヤ人に与えられたメシアなのです。神は、ユダヤ人が律法の奴隷から解放されて、キリストの御霊による神の子どもとなることを望んでおられます。