クリスチャンは、イエス・キリストを信じて救われたと信じています。
「救い主」という発想自体、寝耳に水の異邦人が、十字架で罪の贖いをしてくださったイエスにより、罪が赦されて天国に入る者とされた、と信じているのです。
いつ、救い主を求めましたか?何から救われなければならないのですか?罪の意識もなかった異邦人が、「救い主」と聞いて心が動きますか?
クリスチャンホームで育った人は別ですが、多くの日本人は神社やお寺で参拝するくらいの信仰で、宗教に深く関わっていないのです。
未信者だった頃のことを思い返せば、警戒する人の気持ちもわかりますよね。
愛は、その人の心が触れて感じるものです。神に愛されている、と言われても、その実態がないのです。
しかし、みことばの種を蒔いておけば、心が砕かれた時に、みことばに引き寄せられることもあるでしょう。
「神の国はことばにはなく、力にあるのです。」(コリント第一4:20)
「イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深く憐れみ、いろいろと教え始められた。
そのうち、もう時刻も遅くなったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。『ここはへんぴな所で、もう時刻も遅くなりました。みんなを解散させてください。そして、近くの部落や村に行って何か食べる物をめいめいで買うようにさせてください。』
すると、彼らに答えて言われた。『あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。』
そこで弟子たちは言った。『私たちが出かけて行って、二百デナリものパンを買ってあの人たちに食べさせるように、ということでしょうか。』
するとイエスは彼らに言われた。『パンはどれくらいありますか。言って見て来なさい。』
彼らは確かめて言った。『五つです。それと魚が二匹です。』
イエスは、みなを、それぞれ組みにして青草の上にすわらせるよう、弟子たちにお命じになった。そこで人々は、百人、五十人と固まって席に着いた。
するとイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて祝福を求め、パンを裂き、人々に配るように弟子たちに与えられた。また、二匹の魚もみなに分けられた。
人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れを十二のかごにいっぱい取り集め、魚の残りも取り集めた。パンを食べたのは、男が五千人であった。」(マルコ6:34-44)
イエスは、憐れみによってわざをされました。弟子たちは、自分たちが買わなければならないのかと思いました。しかし、イエスは、ご自分にあるものをお与えになられたのです。
父なる神への信仰と、祝福の力です。
イエス・キリストは、ユダヤ人の祖父アブラハムに誓われた、すべての民族を祝福するアブラハムのひとりの子孫です。アブラハムの子孫イスラエルから出られ、神に「世界の祝福の基」と定められたメシアです。
蛇の頭(罪に陥れる悪魔)を踏み砕く女の子孫であり、「天の雲に乗って来られ年を経た方(永遠の昔からおられる全能の神)のもとに進み、その前に導かれた人の子(キリスト)」(ダニエル7:13)であり、あらゆる国、あらゆる民族、あらゆる国語の人々を罪の呪いから救い出し、永遠のいのちを得させるメシアです。
イエスは、空腹の人々をご覧になって憐れみ、ひとりの男の子が持っていたお弁当の五つのパンと二匹の魚を、神を仰いで、父なる神に祝福を祈られたのです。
すると、父なる神は、神の御子イエスの祈りに応えて、イエスが裂くごとに、パンを増やし、魚を増やし、すべての人が食べて満腹になり、十二かごにいっぱいのパンくずが残るほどに祝福されました。
イエスは祝福の基です。祝福はキリストの象徴なのです。神の祝福が、人となられたイエスとともにありました。イエスは「インマヌエル(主は私たちとともにおられる)」と呼ばれる方です。(イザヤ7:14)
神は、キリストを信じる私たちに、イエス・キリストの御名をお与えくださいました。
イエスは言われました。
「わたし(イエス)は、あなたがた(イエスの弟子)がわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父(神)が子(神のひとり子イエス・キリスト)によって栄光をお受けになるためです。
あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」(ヨハネ14:13,14)
イエス・キリストの御名は「インマヌエル(神が私たちとともにおられる)」なのです。イエスの名は、「神が私たちとともにおられる」ことを証明するものであり、イエスの御名で祈った祈りが聞かれることは、神が確かにイエス・キリストとともにおられるという証であり、神のひとり子の御名が崇められることは、その父(神)の誉れであり、栄光なのです。
キリストが祝福の基なので、イエス・キリストの御名で祝福することは、神のみ旨にかなったことなのです。
「生まれつき足のきかない男が運ばれて来た。この男は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門においてもらっていた。彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。
ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、『私たちを見なさい。』と言った。
男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。
すると、ペテロは、『金銀は私にはない。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。』と言って、彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がって真っすぐに立ち、歩き出した。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った。」(使徒3:2-8)
ペテロもヨハネも、自分にあるものを与えました。信仰とイエス・キリストの御名による祝福の祈りです。
癒された男は、神を賛美しました。この御業をされたのが、ペテロやヨハネではなく、神だとわかったからです。イエス・キリストの御名によって働くのは、人間の力ではありません。神の力、聖霊の力です。
パンと魚を食べた群衆は、神を崇めるのでなく、食物がもらえると思ってイエスを捜しました。
イエスを捜してカペナウムに来た群衆にイエスは言われました。「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。」(ヨハネ6:26)
イエス・キリストの御名によって与えられるしるし(神の力)を見る人と、与えられたものを見る人がいます。見えない神を見る人と、自分の利得を見る人に分かれます。
利得を見る人は、利得が感じられなくなれば、イエスから離れて行きます。人間の愛で神の愛を現わすことはできません。人間の愛によっては、神に結びつけることはできません。
祈りによって、キリストの御霊に働いていただくだけです。祈りのない行ないは、実になりません。祈りのあるところに、御霊の働きがあり、神の時に成就するのです。
イエスは言われました。
「わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。」(ヨハネ14:12)
イエス・キリストの御名によって、イエスが成されたと同じわざを行なうと言われたのです。しかも、それよりもさらに大きなわざを行なうと言われました。
イエスの弟子たちは、イエスが父のもとに帰られ、聖霊を受けると、イエスが成さらなかった、異邦人伝道をしました。
イエスは律法の下にいるユダヤ人に宣教されました。神も、神のことば(聖書)も知って、キリストを待ち望むユダヤ人たちに、神について、神の御国について、永遠のいのちについて教えられました。
しかし、弟子たちは、神の知識もなく、神の律法(聖書)もない、無割礼の人々(神の契約のない異邦人)に宣教したのです。偶像の神々に仕え、自分が神に創造されたものであることも悟らない無知な(真理の知識のない)人々に、生ける神を知らせ、救い主を悟らせるのです。聖なる神から遠く離れていた異邦人に、罪を知らせ、死後の裁きの知識のない人々に、救いの必要を教え、救い主イエスを宣べ伝えるのです。
神のみことばの種を蒔くにはあまりにもやせた土地(心)にみことばの種を蒔くので、みことばの知識から教えなければなりません。
しかし、祈りの場合は、聖霊がともに働いてくださいます。ただのことばではありません。父のもとに帰られた神の御子イエス・キリストが私たちに御霊を授けてくださいました。私たちは真理の御霊の助けを受けて、イエス・キリストの御名によって、祈ることができます。
祈りは、神の御手を動かし、また、祈られた人にわかる御霊の働きがあると思われます。祈りは、祈られた人の霊を神を近づける、目に見えない力があるように思います。
イエス・キリストの御名による祈りは、祝福なのです。
キリスト者にゆだねられた神の祝福です。イエス・キリストの御名によって祝福の祈りを積み上げて行くと、山(問題)が動きます。
そして、祝福を祈った者も、祈られた者も、ともに神のご好意を受けるのです。
祝福の祈りは、祝福の基の主キリストのしもべにふさわしく、また、御国を来たらせるものなのです。