ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

瞳に映すもの

 

 「主は荒野で、獣のほえる荒地で彼(イスラエル)を見つけ、これを抱き、世話をして、御自分の瞳のように、これを守られた。

 鷲が巣のひなを呼びさまし、そのひなの上を舞いかけり、翼を広げてこれを取り、羽に載せて行くように。

 ただ主だけでこれを導き、主とともに外国の神は、いなかった。」(申命記32:10-12)

 

 神は、イスラエルを奴隷の家エジプトから連れ出し、彼らの先祖(アブラハム、イサク、ヤコブ)に約束したカナンの地(現イスラエル)を相続させるために、ユダヤ民族(イスラエル)を荒野に導かれました。

 

 主は荒野を行くイスラエルを、獣の吠える荒地で見つけ、彼らを主の御腕に抱き、天からパン(マナ)を降らせ、岩から水を湧き出させ、うずらを彼らに送って、パンと水と肉とを与えて、百万人以上のイスラエルの民を養われました。

 

 荒野を行く四十年の間、神は、イスラエルの民の着物がすり切れず、イスラエルの民の足がはれることがないように守られました。(申命記8:4)

 

 神は、鷲がひなの上を舞いかけり、翼を広げてこれを取り、羽に載せて行くように、イスラエルを雲の柱と火の柱で守り、獣から守って導かれました。

 

 「主は、昼は、途上のイスラエルを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすため、火の柱の中にいて、イスラエルの前を進まれた。イスラエルが昼も夜も進んでいくためであった。

 昼はこの雲の柱、夜はこの火の柱がイスラエルの民の前から離れなかった。」(出エジプト13:21,22)

 

 「幕屋を建てた日、雲があかしの天幕である幕屋をおおった。それは、夕方には幕屋の上にあって火のようなものになり、朝まであった。いつもこのようであって、昼は雲がそれをおおい、夜は火のように見えた。

 雲が天幕を離れて上ると、すぐそのあとで、イスラエル人はいつも旅立った。そして、雲が留まるその場所で、イスラエル人は宿営していた。

 主の命令によって、イスラエル人は旅立ち、主の命令によって宿営した。雲が幕屋の上に留まっている間、彼らは宿営していた。

 長い間、雲が幕屋の上に留まるときには、イスラエル人は主の戒めを守って、旅立たなかった。

 また雲がわずかの間しか幕屋の上に留まらないことがあっても、イスラエル人は主の命令によって宿営し、主の命令によって旅立った。

 雲が夕方から朝まで留まるようなときがあっても、朝になって雲が上れば、イスラエル人はただちに旅立った。昼でも、夜でも、雲が上れば、イスラエル人はいつも旅立った。

 二日でも、ひと月でも、あるいは一年でも、雲が幕屋の上に留まって去らなければ、イスラエル人は宿営して旅立たなかった。ただ雲が上ったときだけ旅立った。

 イスラエル人は主の命令によって宿営し、主の命令によって旅立った。イスラエル人はモーセを通して示された主の命令によって、主の戒めを守った。」(民数記9:15-23)

 

 イスラエル人は、荒野時代、主に忠実であることを学びました。荒野には、他の神々はいません。エジプトで奴隷であった時、イスラエル人は、偉大なるエジプトの神々の栄光と繁栄を見ていました。

 しかし、荒野には豪華絢爛な神々の神殿の栄光はありません。目に映るものは、乾いた荒地と獣の住む荒野です。

 人間の目には、華やかさはありませんが、生ける神の御力がありました。雲の柱、火の柱の中におられる主です。契約の箱とともにおられる主です。

 偶像の神々に、エジプト人は豊かな奉納物を捧げました。物はあふれていました。荒野には、神に献げる物はありません。しかし、イスラエル人は、神に忠実に聞き従いました。

 

 「主は主の御声に聞き従うほどに、全焼の生贄や、その他の生贄を喜ばれるだろうか。

 見よ。聞き従うことは、生贄にまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」(サムエル第一15:22)

 

 神は生贄を求めておられるのではありません。献げ物を求めておられるのではありません。主の御声に聞き従うことこそが、主の喜びです。荒野時代のイスラエルは、神のみ旨のただ中にいたのです。

 荒野で、神は、イスラエル人を養い、これを抱いて、御自分の瞳のようにイスラエル人を守られました。

 神は、イスラエルをほかの神々に渡されません。天の神はイスラエルの神です。イスラエルは、神御自身の民です。ほかの神々には渡されません。ただ主だけでイスラエルを導かれます。

 

 神の愛はイスラエルに向けられ、イスラエルの目は、目に見えない神のみわざを見ていました。イスラエルは純真でした。イスラエルの瞳には、神の栄光が映し出されていました。

 

 神は、預言者エレミヤにことばを授けられました。

 「さあ、行って、主はこう仰せられると言って、エルサレムの人々の耳に呼ばわれ。

 わたしは、あなた(イスラエル)の若かったころの誠実、婚約時代の愛、荒野の種も蒔かれていない地(乾いた荒地)でのわたし(イスラエルの神)への従順を覚えている。

 イスラエルは主の聖なるもの、その収穫の初穂であった。これを食らう者はだれでも罪に定められ、わざわいをこうむったものだ。―主の御告げ。―」(エレミヤ2:2,3)

 

 まさに、荒野時代は、神がイスラエルと契約を結んだ婚約時代でした。神はこの蜜月のときを忘れられません。

 奴隷の家エジプトから出て来たばかりの、何の誉れもなく名もない民族でした。国もありません。

 あるのは、神の契約と約束です。

 種を蒔くこともない乾いた荒野です。イスラエルはそこから食物を得ることはできません。水源もありません。ただ、生ける神が、イスラエル人のために用意されたマナと水によって生かされたのです。

 荒野を行くイスラエルは、神がおられなければ生きてゆけません。神御自身がイスラエルのいのちの糧だったのです。

 

 神は、荒野時代のイスラエルの従順を覚えておられます。イスラエルは神に誠実でした。それで、イスラエルを食らう者は神が罪に定め、神はそれがだれであっても災いをこうむらせました。

 

 神は、イスラエルに、約束のカナンの地(先祖たちの眠る地)に入った後、仮庵の祭りを祝うように命じられました。

 「あなたがた(イスラエル)がその土地(カナンの地)の収穫をし終わった第七月の十五日には、七日間にわたる主の祭りを祝わなければならない。最初の日は全き休みの日であり、八日目も全き休みの日である。

 最初の日に、あなたがたは自分たちのために、美しい木の実、なつめやしの葉と茂っり合った木の大枝、また川縁の柳を取り、七日間、あなたがたの神、主の前で喜ぶ。

 年に七日間、主の祭りとしてこれを祝う。これはあなたがた(イスラエル)が代々守るべき永遠の掟として、第七月にこれを祝わなければならない。

 あなたがたは七日間、仮庵に住まなければならない。イスラエルで生まれた者はみな、仮庵に住まなければならない。

 これは、わたし(神)が、エジプトの国からイスラエル人を連れ出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを、あなたがたの後の世代が知るためである。わたしはあなたがたの神、主である。」(レビ23:39-43)

 

 仮庵の祭りの期間、神は婚約時代の初々しかったイスラエルを思い起こされ、従順であったイスラエルの、神への愛を思い出されるのでしょう。

 

 荒野時代、イスラエルの目は、神の栄光を見ていました。神がともにおられなければ生きてゆけませんでした。イスラエルの瞳には目に見えない神が映し出されていました。

 

 外国の神々はいませんでした。ただ、イスラエルの神だけがイスラエルを抱き、世話をして、御自分の瞳のようにイスラエルを守られたのです。

 

 今、私たちは瞳に何を映しているのでしょう。

 主を仰げば心に光が差します。主を慕い、主に期待し、主を求めるならば、主が私たちの目に主の栄光を見せてくださいます。

 自分自身を見るならば、また、世を見るならば、真理の光は隠されます。そして、闇の中を手探りで進み、信仰がぼんやりとして心もとない状態になってしまいます。

 

 「あなたには、私(神)のほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。(神以外のものを心に据えてはならない。)それらを拝んではならない。(それらを慕ってはならない。)それらに仕えてはならない。(それらの奴隷になってはならない。)

 あなたの神、主であるわたしは、妬む神である。」(出エジプト20:3-5)

 

 信仰告白したときの、純真な思いを思い起こしましょう。

 神は、私たちの初めのころの誠実、初めの愛、純真な信仰を覚えておられます。

 

 「あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。」(黙示録2:5)

 神に信仰を告白して神の愛に包まれたときの、私たちのあの新鮮な喜びと感動を、神は覚えておられるのです。