ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

霊を明るくする

 

 「主の御教えは完全で、魂を生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。

 主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。」(詩篇19:7,8)

 

 「私に目を注ぎ、私に答えてください。

 私の神、主よ。私の目を輝かせてください。

 私が死の眠りにつかないように。(希望をなくして神を見失ってしまわないように。)」(詩篇13:3)

 

 「あなたは私のともしび(希望)をともされ、主、私の神は、私の闇を照らされます。(不安や恐れに度胸を与えてくださいます。」(詩篇18:28)

 神は、悩む民(助けを叫び求める貧しい者や、助ける人のない悩む者)をこそ救われますが、高ぶる目(高慢を顔に表して、神を尋ね求めない者)は低くされます。

 神は、弱っている者や貧しい者を憐れみ、貧しい者たちのいのちを救うお方です。

 

 信仰は、霊的なものです。

 真理の光は、天のものです。

 天から来られた神の御子イエス・キリストを信じる者の信仰は、真理の光を仰ぐ信仰です。私たちの信仰は、天にあるのです。

 

 「自分の宝を地上に蓄えるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物となり、また盗人が穴をあけて盗みます。

 自分の宝は、天に蓄えなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。

 あなたの宝(大事だと思っているもの)のあるところに、あなたの心(執着する心)もあるからです。

 からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。」(マタイ6:19-23)

 

 ここで言う「目」とは、肉体の目のことではありません。神を見る霊の目のことです。肉の目に映るものは、朽ちてゆくこの世のものです。肉の目では、神を見ることはできません。

 神は霊なるお方です。霊の目に映るお方なのです。霊が暗ければ、闇のものしか見えません。混ぜ物です。それは、純粋な神のものではありません。神は光です。永遠に堅く立つ真理の光です。

 

 人は、「心の目」という言い方をしますが、その目は、この世の延長線上の地上の光を見ているのでしょうか。それとも、天の光を見ているのでしょうか。

 この世の成功、この世の誉れは、光り輝いているように見えますが、この世の光です。天に蓄えられるものではありません。

 

 イエス・キリストの御名(神の御名)によって得た誉れは、世の人々には懐疑的なものです。神の栄光なんて、世の人々の目にはつまらないものです。世の人々の心を逆なでする苦々しいものです。

 イエス・キリストが、ユダヤ人たちに認められず、あざけられ、卑しめられたのと同じです。腹立たしさが、地につく世の人々を支配するのです。

 

 天を仰ぐ霊の目で見るのか、この世の賢さや知恵を見つめる霊の目で見るのか、霊の目には、いくつもの光が差し込みます。

 

 天を仰ぐ霊の目は、天から来られた神のひとり子イエス・キリストの御霊によって明るくなります。御霊以外には何ものによっても、その目を持つことがありません。神の御子イエス・キリストによらなければ、まことの光(真理の光)を見ることができません。

 

 霊が明るくされるのは、神の恵みです。神を求める者に、神は耳を傾けられます。神に求める者に、神は御顔を照らされます。神の御顔の輝きがその人の目に映し出されると、その人の霊は明るくなるのです。

 

 「イスラエル」は、アブラハムの契約と祝福を、神と人と戦い勝ち取ったヤコブに与えられた名前です。イサクの子だから、ヤコブが相続人となったのではありません。

 ヤコブは、アブラハムの契約の価値を理解する者でした。それで、長子のエサウから長子の権利を買い取りました。ヤコブは激しく神を求める者でした。ヤコブは神の人と戦って、神の人に勝ち、神の祝福を受け取りました。

 

 ヤコブは神の契約と祝福の測り知れない恵みを悟り、全身全霊で求め、神にすがりついて、その熱心としつこさによって、神からアブラハムの契約と祝福を相続したのです。ヤコブは、アブラハムの契約と祝福を、父イサクから受け継いだのではありません。神から与えられたのです。神が、相続するのにふさわしい信仰者であると、ヤコブを認められたからです。

 そして、ヤコブは、神と戦って勝った者という名の「イスラエル」という新しい名前を、神から与えられました。

 

 イスラエルは、ヤコブの子孫です。また、神の御子イエス・キリストによって、新しくイスラエルに加えられる私たちもまた、ヤコブのような信仰による勝利者なのです。

 祝福を手をこまねいて待っていてはいけません。ヤコブのように、神にしつこく願って求めることがなければ、どうして、選びの民イスラエルの中に入ることができましょうか。

 

 御救いの約束のない契約の外にいた私たちが、約束のものを手にするために必要なのは、神が必ず与えてくださると信じて求め続ける忍耐と、与えられるまで叩き続けるしつこい求めと、見つけるまであきらめることなく捜し続ける信仰です。

 忍耐としつこい懇願と見つかるまで捜す信仰によって、霊を明るくする真理の光は得られるのです。

 

 ある牧師は、「(自分が)わかっても、わからなくても主の道を歩んでいることができますように。」と熱心に祈っておられました。

 (これだ!)と私は思いました。私も密かに祈りました。「私がこの道が正しいとわからなくても、神の憐れみによって、正しい道(神が私に用意された使命の道)を歩んでいることができますように。」

 

 自分が正しいと思っても、ある人は「それは危険だ。」と言い、また、ある人は「神からのものではない。」と忠告します。本当に正しいことは、よくわからないのです。

 人は、それぞれの立場で考え、おのおのの経験に従って判断します。私もまた、自分の経験値から判断します。何が正しいのかは、後にならないとわかりません。

 

 また、使命(神に与えられた働き、自分が担わなければならない成すべきこと)は、まったくと言っていいほどわかりません。神は、初めから明確に示されないからです。わかってしまえば、自分の力でやってしまうでしょう。神は、一歩一歩御自身の御霊によって導かれます。

 

 それで、「わかってもわからなくても、自分が正しい道を歩んでいることができますように。」という祈りは、私の不安な気持ちに、また、躊躇する気持ちに進む勇気を与えてくれました。

 「主よ。この道を進んでいいですか?私の思いから出た決断でしたら、私の心に不安を与えてやめさせてください。間違っていたなら、この道を進めないように道を閉ざしてください。」

 「主よ。この道が神からのものであるなら、不安を取り除いてください。平安を与えてください。あなたがともにいてください。あなたがともに行かれないならば、すぐさま、取り止めます。」

 

 「わかってもわからなくても、正しい道を歩んでいることができますように。」という祈りを積み上げたうえでの歩みには、何か不思議な力がともにあるのを感じます。

 まるで、そうなることを事前に知っていたかのような、備えられた状況に出くわしたりします。また、目に見えない力に守られ、安全に歩むべき道へと導かれるようにも感じられます。

 

 神がはっきりと「この道を行きなさい。」と言われるような時もあります。大概、私の思いに浮かばなかったような寝耳に水の事です。

 その場合は、「主よ。神が言われたから私は行きますが、私自身には何の計画もありません。主よ。ともに行ってください。このことは神から出たことですから、神が責任を取ってください。」と祈ります。

 

 普段から主を仰ぎ、一つ一つのことを主に祈っていると、それは、神と会話していることであり、会話が増すほどに神のことが現実になってきます。ぼんやりしていたものが、以前よりも理解できるようになるのです。

 

 祈りによって天のことを思う時間が長くなれば、それは啓示の光を見ることとなり、目が明るくなります。霊の目が明るくなると、神こそが現実なのだと感じ取るようになるのです。

 

 聖書を読むことも大事です。しかし、生ける神を体験するのは、生ける神との交わり、すなわち、日々の祈り、自分自身の素直な言葉で正直に打ち明けることが大切です。相手を知るためには、知識とともに、面と向かって会話すること以上のことはありません。自分自身で神を体験するのです。

 

 神を目に映していれば、霊は明るくなります。神は光ですから、天の全き光を見ていると、暗い思いの束縛がゆるくなっていくのです。

 そして、光を慕う者、光を愛する者に造り変えられていくのです。