ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

宗教が与えることのできない希望と信仰と愛

 

 宗教は、神が造られた魂を奴隷にする霊です。宗教の霊は、人々を創造主から引き離します。なぜならば、宗教の霊は全知全能の神から出たものではないからです。

 

 人間はだれもが、善悪を知る知識の木の実を食べたアダムの子孫であり、生まれつき原罪(罪の性質、仏教でいうところの煩悩)を持つ者です。

 人間はみな罪を犯す性質の者であり、だれかが教えなくても、赤子は、他人の顔や頭を叩いたり、ほかの子どもが持っている物を奪い取ったり、他人の言うことにイヤイヤをしてそっぽを向きます。また、成長すると、悪態をついたり、親に逆らったり、嘘をついたりします。

 もっと成長すると、妬みや憎しみや怒りや争いなど、良くないことだと思っていても、どこからかふつふつと湧く感情が自分のうちにあるのを意識します。自分の中にあるものなのに、自分の意識の外で膨れ上がります。善い心を望む者は、その感情にふたをして見ないようにします。しかし、無くなるわけではありません。何も解決しません。

 

 善悪を知る知識の木の実を食べたエバのDNAを持つ人間は、善と悪のはざまで揺れ動きます。善に心を向け善の道を歩みたいと願う者や、自分のうちにある悪に脅かされて悪しき心を取り除きたいと願う者や、きよいものに憧れる者たちは、宗教に導かれて行きます。道徳的な教えを受けて、善い者となるためにのめり込みます。宗教の中に救いの答えがあると思うからです。自分自身のうちにある得体のしれない良からぬものとの闘いです。

 

 しかし、宗教の中には、救いはありません。そこに、私たちを造られた創造主はおられないからです。最初の人アダムが造られたときの、非常に良かった人の状態をよく知るお方(造り主)は、そこにはおられないのです。

 彼ら(宗教の信者)は、創造主ではなくて創造された者に救いを求めます。創造の責任を持たず、責任を持てない被造物に救いを求めているのです。創造主から外れた自分と同じ罪人の人間にすがります。また、神ではない霊にすがります。それらは、人間同様、神の光を取り去られた(天から追放された)悪しきものです。天の光に戻ることのできない霊たちです。

 

 しかし、人々(信者)が寄り頼むもの(彼らが慕う彼らにとっての救い)は、その人々にとっては、彼ら(迷える人間)を真理へと導く、偉大な聖者です。彼らの神であり、救いです。ある人々は、それに人生をかけます。

 

 しかし、それらすべての事柄(信仰や礼拝や崇める対象)は、地に属するものです。地に属するものは、真理の光を持ちません。真理の光は天に属するものだからです。宗教は、天(真理の光)に背を向けて、創造主抜きで限りある命を全うしようとしているのです。

 

 人間は、宗教を持つことで支えられ、進むべき道を提示されると思っていますが、宗教の行き着く場所は、死と裁きです。実は何の解決もしていなかったのです。

 

 善悪を知る知識の木の実を食べた呪い(神に逆らう者の証)を受けた人間を救うのは、善悪を知る知識の木の実の呪いを取り除いてくれるものでなければなりません。なぜならば、人間の悩みの根は、そこにあるからです。

 

 どんなに麗しい言葉によっても、その罪の汚れを取り除くことはできません。厳しい修行をしても、心のうちにある原罪を捨て去ることはできません。原罪は、何をしても取り除くことができません。すなわち、肉体を持って生まれて来た者はだれひとり、聖くなることはできないということです。罪(嘘、怒り、悪口、争い、冷淡、憎しみ、妬み、盗み、殺意などの感情の湧く源)がその人の命と共存しているからです。原罪(罪の性質)が死ぬときは命を失うときです。命とともに原罪は生きているのです。

 

 宗教により頼んで、汚れをなくす努力をして、きよい生き方を心がけるならば、どこに行くと思っているのでしょうか。

 天は罪なき所です。全き光であって、闇はありません。少しでもしみがあれば、ちょっとでも傷があれば、ピーンと張っていなくて少しでもたるみ(しわ)があれば、天に入ることはできません。天は全き世界なのです。完全なものの世界です。不完全な者が入るところではありません。人間には閉ざされた所です。

 

 暗いところのある者はだれひとり、全き光である天の御国には入れないのです。だれが、少しも暗いところのない心、しみ傷しわのない心に整えてくれるのでしょうか。整えてくれる者は、全き光の者でなければなりません。なぜならば、少しでも暗い所があるならば、その暗さゆえに、完全にすることができないからです。他人を整える前に、まず、その人自身がきよい者とならなければなりません。では、その人をきよい者にするのはだれでしょうか。

 

 肉体を持って生まれた人間にはかなわないことです。女から生まれた人間はみな、エバの血を引く者です。罪人が罪人の罪をきよめることはできません。

 

 天地万物、肉体を持つ人間を造り、いのちをお与えになった神がおられます。全き光であり、真理の光であるお方です。神のうちには、少しも暗いところがありません。永遠に生きるお方です。すべてのものは、この神から発し、神によって成り、神に至るのです。

 

 宗教の神々とは違います。御自分に似せて人を造られた創造主です。人に感情や思考、意志を造られた神です。

 哲学者カントは、この知・情・意を、「私は何を知りうるか」「私は何を望んでよいか」「私は何を成すべきか」と捉えたそうです。

 人がどのように捉えようと、神(創造主)を知り、神とひとつ心となり(神にへりくだり)、神に忠実である(神に聞き従う)ことが、神が人に与えられた「知・情・意」だったのでしょう。

 

 人間の人生ではっきりしていることがあります。必ず死ぬということです。金持ちにも、賢い人にも、成功者にも、死は必ず訪れます。だれも逃れることはできません。神に選ばれた神の民でさえも、永遠に地上でながらえることはありません。

 

 肉体は滅びます。命あるものはみな一度死にます。地上のものは朽ちるのです。それゆえ、地上から出た者が、滅びる者を救うことはできません。なぜならば、その人自身も滅びるからです。

 神は、天も地も跡形もなく滅ぼす時を定めておられます。天地が滅びると、天地に存在するものもすべて滅びるのです。

 

 善悪を知る知識の木の実を食べて(神に)罪を犯し、神(いのちの主)の支配から外れた人は、罪ある者(死ぬ者)となったのです。

 罪の報酬は、死です。死は、罪の報いなのです。すべての人間が死ぬことは、すべての人間が(神に)罪を犯したことの証です。

 

 どんなに優秀で才能豊かで、また、良い人でも、必ず死にます。人間の中に罪があるから死ななければならないのです。

 きよくなろうと、神の律法を熱心に守ったユダヤ人(パウロ)は嘆きます。熱心になればなるほど、自分のうちにある罪が明らかになるからです。律法を知らなければ、責められることはありませんでした。しかし、律法の知識が、自分のうちにある背き(神に従うことのできない性質)と悪の原理(悪をしたくなくても悪に傾く罪の性質)を見出すのです。

 

 「私は、本当にみじめな人間です。だれがこの死の、からだ(滅びの定め)から、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7:24)

 

 神は、御自身がお造りになった人をお見捨てになられたのでしょうか。

 神が捨てられたのは、神に敵対する反逆者の堕天使(悪魔と悪霊ども)です。神は、彼ら(悪魔と悪霊ども)を裁かれます。また、彼らの永遠の裁きのために、永遠に燃え盛る火の池を用意されます。

 

 神は、魂の安らぎを求め、宗教を慕う人々、救いを求める人々を見捨てられはしません。神は、死と滅びの恐怖にうめく魂を救うために、罪を取り除く子羊(生贄)を用意されました。罪の贖いの子羊です。

 神の用意された罪の贖いの子羊は、天から遣わされた、神のひとり子イエス・キリストです。罪のある被造物では、人の罪を贖うことができません。聖くないからです。罪を贖う子羊は、しみ傷しわのない全き者、罪を見出すことのできない完全な被造物でなければなりません。

 

 創造主は、世の罪を取り除くために、神のひとり子に肉体を造られました。そして、罪の贖いの子羊を造られたのです。肉体を持つ神の御子イエスは、完全な被造物です。神の性質を持つ被造物です。汚れのないアダムです。

 神が全地から選び、神の民として育てられたイスラエル(神の祭司の国民)に、この神の子羊(イエス・キリスト)を遣わされました。神の祭司の国民が、世の罪を取り除くために、神の子羊を屠るためです。

 

 天から来られた子羊イエスは、天のことばを語ります。それは、人を創造された全知全能の神、いのちの主のことばです。いのちを得させることばです。地に属する宗教の教えとは違います。永遠のいのちを得させるための神のことばです。イエスの教えには、神の御霊がともに働かれます。いのちを得させる神の霊です。生かす御霊です。

 

 罪なき神の子羊イエスの贖いの血は、最初の人アダムが善悪を知る知識の木の実を食べた罪の呪いから、人を解放しました。

 宗教によってきよくなろうと努力しても到達できなかった、人のうちにある「原罪」は、神の子羊イエス・キリストの血によって贖われました。罪が贖われたのです。まだまだたくさん罪を犯す根(原罪)がうちにあるのに、神は、罪を赦してくださいました。神の子羊イエスの血が、魂がうめいていた、死と裁きと滅びの恐怖を取り除いてくださいました。

 私たち死ぬべき人間に代わって、罪人を捕えていた罪の源である原罪の呪いを、神の子羊イエス・キリストが受けてくださいました。神は、主キリストの血によって、死と裁きに定められていた人間の罪を贖われました。永遠の死から解放し、永遠のいのちを得させてくださるのです。

 

 神が遣わされた神の子羊イエス・キリストの血によって罪が赦された者(イエス・キリストの救いを信じる者)は、罪の呪い(永遠の死)と裁き(永遠に燃え盛る火の池)から解放されたのです。何も恐れることはありません。

 イエス・キリストの血が、信仰告白する魂の罪をきよめて、魂を造られた神(創造主)を知る者としてくださいます。創造主を知る魂は帰るべき永遠の場所(天の故郷)を悟ります。

 

 善悪を知る知識の木の実を食べて神(創造主)を見失っていた魂が、十字架で屠られた神の子羊イエス・キリストの血によって、神に立ち返り、いのちの木の実(キリストの御霊)を食べて、永遠に生きる者とされます。なぜならば、キリストは、キリストを信じる者に「生かす御霊」をお与えになるからです。御霊が真理を悟らせてくださいます。

 

 創造主に立ち返った魂は安らぎを得ます。失っていた大切なものを見出したからです。この失っていた神(私たちを造られた創造主)への信仰を取り戻すために、私たちは、命を得て、今地上に置かれている(肉体をもって生きている)のです。

 

 神のひとり子がご自分のいのちを捨てて、私たちの罪を贖ってくださいました。そして、信じる私たちの霊のうちに、真の知識を得させる御霊を授けてくださいます。もはやひとりではありません。御霊がともにおられるのです。

 

 私たちは、神に愛されていることを知る者です。イエス・キリストの血は、私たちの霊を縛り上げ奴隷として苦しめた宗教の霊から救い出して、天の御国に入る永遠の希望を与えました。信じようと努力しなくてよいのです。うちにおられる御霊が確信に満ちた信仰に造り変えてくださるからです。

 

 人を救うのは、宗教ではありませんでした。

 人を救うのは、生けるまことの神のひとり子イエス・キリストの「贖いの血」と、キリストが与えてくださる「生かす御霊」です。

 生けるまことの神(創造主であられる全能の神)が私たちを救い、私たちを死と滅びの恐怖から救い出してくださいます。神の愛と信仰と希望が私たちの魂に安らぎを与え、だれにも奪われることのない喜びで私たちを満たしてくださるのです。