ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

愛されていることを知る人々

 

 

 「まことに、あなたがた(ユダヤ人)に告げます。取税人や遊女たちのほうが。あなたがたより先に神の国にはいっているのです。

 というのは、あなたがた(祭司長や民の長老たち)は、(バプテスマのヨハネ)が義の道(悔い改めて神に立ち返る水のバプテスマ)を持って来たのに、彼を信じなかった(ヨハネが神から出た者であることを信じなかった)。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じた(ヨハネが神から遣わされた預言者であることを信じ受け入れた)からです。しかもあなたがたは、それを見ながら(ユダヤ人たちがヨハネから水のバプテスマを受けて神を崇め神にへりくだっているのを見ながら)、あとになって悔いることもせず。彼を信じなかったのです。(ヨハネを否定し、心を頑なにしたからです。)」(マタイ21:31,32)

 

 祭司長たちは、ユダヤ人たちに、聖書を教え、神を畏れることを教えなければならない教師です。ユダヤ人たちに尊敬される人々です。

 取税人や遊女たちは、律法を守らない外れ者です。ユダヤ人たちから、神の民聖なるイスラエルを汚す罪人として蔑まれていました。取税人はお金に貪欲な者であり、遊女は不品行な者です。石打ちの刑で殺されても当然の罪人です。

 

 しかし、「キリスト」と噂されているナザレのイエスは、祭司長やパリサイ人たちが最も卑しいユダヤ人として蔑んでいる取税人や罪人たちと共に食事をされます。イエスは、罪人の仲間なのでしょうか。

 

 パリサイ人たちは、イエスが聖なる方(イスラエルの神)から来られた方ならば、聖なる行動をされなければならないと考えました。祭司長やパリサイ人たちとともに居るべきではありませんか。なぜ、罪人とともにおられるのでしょうか。

 

 イエスはパリサイ人たちに言われました。

 「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたし(イエス・キリスト)は正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコ2:17)

 

 祭司長もパリサイ人も聖書を知り、律法を守るために努力する模範生です。しかし、取税人や遊女は、聖書のみことばを持たない異邦人と同じような罪人です。

 イエスは、すでに自分で正しい道を歩んでいると自負している者を招くために来られたのではありません。自分ではどうしたらよいのかわからず、道に迷っている者、助けを必要とする罪人を招くために来られました。

 

 泳ぎ上手な人に助けは必要ありません。泳ぎ方がわからずにおぼれかけている人を救わなければなりません。泳ぎ方のわからない人は藁をも掴む思いで、必死に助けを求めているのです。

 

 神のひとり子イエスは、神の律法を与えたご自分の民のところに来られました。律法を守れなくてうめいている人々を救うために来られたのです。

 

 取税人たち罪人のところに、パリサイ人たちは来てくれません。パリサイ人たちは、汚れた者とは交際しません。汚れた者の仲間になることはあり得ないことです。罪人はのけ者です。だれが彼らに正しい道を教えてくれるのでしょうか。

 しかし、真理を説くイエスは、ご自分から取税人たち罪人のところに来てくださいました。罪を犯さない聖なる方キリストが、罪人のところに来て、優しく語りかけ、「あなたの罪は赦された。」と言ってくださるのです。罪人はイエスに触れたとき、神の愛に触れたのでした。

 

 取税人や遊女は、イエスにすがりました。イエスが救い主だとわかったのです。傷ついた罪人たちは、愛に包まれ、罪が赦される開放と喜びを体験しました。イエスの愛に溶かされ、祭司長や民の長老やユダヤ人たちから受けた虫けらのような扱いに、価値の無い自分を蔑んで荒れすさみ乾いた罪人の心は、イエスに開き、愛される喜びを味わいました。

 

 罪に定められて呪いに縛られ闇に閉じ込められていた魂は、イエスのことばに安らぎ、愛の光で心を探られ、責め立てる者(律法の専門家)たちの蔑みで暗い罪人の心は、罪を認めて自分の口で罪を言い表し、イエスに告白し悔い改める者となりました。

 

 罪人こそ、赦しを必要とする人々です。イエスは、罪人を赦すために来られたのです。

 罪は、自分を蝕むものです。罪は、罪を犯した自分自身を苦しめます。罪を抱えているうちは、暗い夜道をひとりで歩いているようです。罪の償いをしないで隠し続けるならば、心を掻き乱されます。何ものかに追われて、いつも何かに怯えているようです。自分自身が自分を責め立てるのです。

 

 自分の罪を知る取税人や遊女のほうが、赦されるというかけがえのない恵みと解放の喜びを知っているのです。彼らは、赦しによって縄目から解放されました。

 神の御子イエスは、罪人たちに、赦しを宣言するために来られたのです。自由を得させるためです。

 罪の奴隷が、罪を認めて罪を言い表わし、主イエスに赦しを求めるならば、イエス・キリストは、その罪を赦すだけではなく、罪の縄目からも解放して自由にしてくださいます。

 

 赦された罪人は、その解放と自由の喜びの中に、神の愛を深く悟るのです。

 神から遣わされたバプテスマのヨハネを信じない祭司長たちは、御子イエス・キリストも信じることができません。イエスに罪を赦される経験を知らない祭司長たちは、神の愛も体験していません。

 

 罪を赦された罪人は、自分が神に愛された者であることを知っています。罪を赦してくださったイエス・キリストの愛を自ら悟ったのです。神に愛されていることを知る者の心には、愛の泉が置かれます。神を愛するとともに、癒しが進むと、自分自身や他者をも愛するようになるのです。

 

 「幸いなことよ。その背きを赦され、罪を(キリストの贖いの血で)おおわれた人は。

 幸いなことよ。主(裁き主)が、咎をお認めにならない人、心に欺きのない(神に隠すもののない)その人は。

 私(ダビデ)は(罪を隠し)黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。

 私は、自分の罪を、あなた(主)に知らせ、私の咎を隠しませんでした。

 私は申しました。『私の背きの罪を主に告白しよう。』

 すると、あなた(神)はわたしの罪のとがめを赦されました。」(詩篇32:1-5)

 

 ダビデ王は、神が罪を赦してくださる方であることを知っていました。神に愛された者であることをダビデは知っていたからです。

 

 律法に縛られ、生ける神を霊とまことをもって知ろうとしない祭司長やパリサイ人たちは、神の愛を知る者ではありませんでした。律法によって義とされることを信じる人々です。

 律法の義のない取税人や遊女たちは、イエス・キリストの赦しを受け、自分たちが神に愛される者であることを知りました。イエスの愛を知る彼らの信仰は、神の愛に結ばれました。愛によって結ばれた信仰は、だれも消し去ることができません。

 

 神の愛は、赦しの中に愛を見出した者たちに抱きしめられます。

 穏やかな愛でしょうか。神の愛は激しいのです。私たちを救うために、イエスはご自分の血を流されました。私たちに永遠のいのちを得させるために、イエスは死なれました。

 

 「愛は死のように強く、妬みはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。

 大水もその愛を消すことができません。洪水も押し流すことができません。

 もし、人が愛を得ようとして、自分の財産をことごとく与えても、ただの蔑みしか得られません。」(雅歌6,7)

 

 神の愛は、地球を滅ぼし、永遠の火の池に投げ込むほどに、激しい妬みを伴います。死がすべての人を飲み込むように、神の愛も神を信頼するすべての人を飲み込みます。

 ノアの時代、神が大洪水で押し流した地上に、ノアの家族が残されました。大水も、神に信頼するノアを救い出される「神の人への愛」を消すことができませんでした。

 

 神の愛はお金で買えるものではありません。自分の財産をことごとく与えても、神は笑われるだけです。神の愛には、愛(神への信仰)で応答しなければなりません。

 神の愛に応答する者は、「神に愛されている」ことを知り、神は、被造物すべてを失っても、なおも自分を愛して救い出してくださる方であることを信じる者です。

 

 「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」(へブル11:6)

 

 聖書の知識があっても、そこに感情が伴なわなければ、イエスの愛にとらえられることができません。神の愛に包まれた時、赦されたことも、愛されていることも、はっきりとわかるのです。イエスの愛に触れた時、私たちのうちから愛が生まれるのです。

 

 「愛のない者には、神はわかりません。なぜなら、神は愛だからです。

 神はそのひとり子(神の子羊イエス)を世に遣わし、その方(イエス・キリスト)によって私たちに、(永遠の)いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛(神は罪人を滅ぼすことを決して望まず、御子の死に代えて罪人を生かされる父の愛)が私たちに示されたのです。

 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物(生贄)としての御子(神のひとり子)を遣わされました。」(ヨハネ第一4:8-10)

 

 取税人や遊女たちは、この愛を受け取りました。

 神の律法を知らない異邦人(キリスト者)たちも、この神の愛を知りました。キリスト者は、神が自分を愛しておられることを信じ、神に愛されている者である平安と喜びをもって神を崇め、イエス・キリストを愛し、神に信頼する人々です。