ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

イエス・キリストはまことの救世主

 

 キリスト教会では、イエス・キリストは神の御子であり救い主です、と告白します。イエス・キリストの御救いをほめたたえる讃美歌を賛美します。

 しかし、実際のところ、イエス・キリストが救い主であるという実感を、日々の生活で体験しているでしょうか。

 

 教えによって理解していても、仏教の日蓮上人や親鸞聖人を信じる人たちと並んで、私たちはイエス・キリストを救い主として信じていると考えてはいないでしょうか。

 仏教徒は阿弥陀様と言って、阿弥陀の名で助けを求めます。キリスト教徒は、イエス・キリストの御名で神に祈り、イエスの名で助けを求めます。それぞれの宗教では、おのおの信じている神仏の名に助けがあり、守りがあると信じているのです。

 数多くの神仏の名の在る中で、私たちは、イエス・キリストの御名に力があると信じている者です。

 

 救世主というと、世から救い出してくださる方です。

 私たちが生きているこの世は、救い出されなくてはならないほど危険な世なのでしょうか。そんなに悪い世なら、なぜ、人々は死にたくない、まだ生きていたいと思うのでしょうか。悪い世ならば、この世から早く出てしまった方が幸いなのではないでしょうか。

 

 人間は、罪の世、死の恐怖におびえる世、朽ちて滅びる世から解放してくださることを願います。この世が地獄なのではありません。そこまで苦しいわけでもなく、時々楽しいことがあったり笑ったり喜んだりする日々を何となく過ごしています。

 窮地に陥る時もあります。しかし、落胆のあとに、回復の時がやって来ます。そんなこんなで、人生そんなに悪いものではないと思うのです。

 それなのに、世から救われることを願うのはなぜでしょう。

 

 人は霊的存在として造られています。永遠への思いも与えられています。造られる?与えられる?私たちの存在は、外部の何ものかの意図によってあるのでしょうか。

 

 永遠の思いを持つ人間の魂は、死後の裁きを無意識層で捉えているようです。

 死は、夜の帳が下りるイメージです。見えていたものが見えなくなり、聞こえていた音を失い、闇に閉ざされるようです。そして、闇の中には罪、死、滅びが潜んでいます。全くの無になるのならば、意識もなくなり苦しむこともありませんが、恐れを感じるということは、意識がある証拠です。

 

 人間の意識は、ひそかに、罪の報いを恐れています。死んで無になるのであれば、何も心配することなどありません。しかし、心が騒ぐのは、やはり、何かがあるからなのでしょう。意識では認知できませんが、眠っている時に夢を見る潜在意識は、そのことを捉えているようです。

 

 人間は何から救われたいのでしょうか。潜在意識は、罪の報いを恐れているのです。自分には罪はないと思っている人でさえ、潜在意識では、何かにおびえているのでしょう。

 

 実は、アダムの子孫はみな、罪の呪いにおびえているのです。なぜなら、人間は母の胎から出て来た時から、死と死後の裁きが定められた運命を背負っているからです。

 潜在意識の警告に注意深い人は、得体の知れない恐れに悩み、その恐れからの解放を求めます。あるいは、善い事を心掛けます。潜在意識の警告を侮る人は、嘲笑います。潜在意識を消す人は、死後の悩みを持ちません。

 

 潜在意識の警告を受ける人の魂は、生きることを望む魂です。そして、闇の心が恐れを抱かせることに思いが行き着き、闇を払うことが恐れからの解放の手段と捉えて、救いを求めます。宗教はそのような人々に安らぎを与えます。

 

 イエス・キリストが神の御子だと聞いても、それは、キリスト教徒の信仰だと思います。イエス・キリストが罪の生贄の子羊であり、人の罪を身代わって贖いの血を流されたと聞いても、自分には処刑されるような罪はないと思います。

 

 罪の報酬が死であることを、人間は知りません。死はだれもが通る道であり、自然の法則であり、すべての人間に起こることだからです。自分だけではありません。罪によって霊魂は曇り、もやがかかって、真理を悟ることができません。

 

 ましてや、イエス・キリストは日本人ではありません。外国の人ではありませんか。そんな人に、日本人を救うことができるでしょうか。日本には、日本人が崇めて来た神々がいるではありませんか。日本人から出た弘法大師や日蓮上人がいるではありませんか。

 

 今までの世は、日常に助け主を意識しなくても、普通に生活して来れました。しかし、これからは、人間の想定をはるかに超えた出来事が次々と起こって来ることでしょう。

 

 自分の罪と向き合っている余裕なんてありません。ただ、ひたすら、命乞いをするような状況になることでしょう。自分の外に、助けを求めます。それは、自分ひとりだけではありません。周囲の人々もそれぞれがそのような状況に置かれることとなるでしょう。

 

 そのとき、人は自分の人生のうちに積み上げたものに救われる確証のないことに気づくのです。どんなに良いことを心掛けていても、それが救いとなるのでしょうか。

 

 これから、霊的覚醒が起こると、啓示の光を仰ぐ人と、宗教の教えにしがみつく人とに分かれることでしょう。投じられた真理の火は、真理でないものをメラメラと焼き尽くし、啓示の光を仰ぐ人々に真理(まことの救い)を明らかにします。

 

 人はみな罪人であり、死と滅びが定まっていること。そして、死後の裁きで滅びに定められないために、神の御子イエスがご自分の血を流して罪を贖われたこと。また、神の御子イエス・キリストを救い主と信じてイエス・キリストの御名を呼ぶ人々に永遠のいのちを得させ、死と滅びから救い出してくださる神を悟るのです。

 

 永遠の死と永遠の滅びから救い出し、永遠のいのちを得させ、全き光の天の御国に入らせ、永遠の安息を与えてくださる神のひとり子イエス・キリストが救い主であることを知るのです。

 

 イエス・キリストの御名が語られ、キリストの福音が聞かれる世は終わります。悪しき者が世界を支配し、聖徒たちを迫害し殺戮するからです。

 異邦人の時の完成が告げられると、天は開かれ、世界中の生きた(永遠のいのちを得た)キリスト者たちが地上から取り去られます。いのち(永遠のいのち)ある人々が、世からいなくなるのです。

 

 あの人々はどこへ行ったのかと、人々は不思議に思います。

 世は一変します。神を愛する人々がいなくなると、地上に愛は冷めます。

 

 そして、地上に残されたクリスチャンたちは、そのときに救世主の意味を悟るのです。本当に、イエス・キリストが、滅びゆく世から、信じる人々を救い出してくださる救世主であることに気づきます。

 

 「この天地は滅び去ります。しかし、わたし(神の御子イエス・キリストのことば)は決して滅びることがありません。」(マタイ24:35)

 

 私たちの肉眼で見ている天地は滅びます。しかし、イエスが語られた御救いの約束は成就し、イエスがイスラエルの王として世界を治められる新しい世が現われるのです。

 

 イエス・キリストは罪の呪い(裁き)からの救い主なだけではありません。滅びるこの世から救ってくださり、新しい世を用意して、そこに導き入れてくださる救世主なのです。

 

 聖書に書かれている神のひとり子のことを、日本ではイエス・キリストと呼びます。アメリカではジーザス・クライスト、ドイツではイェーズス・クリストゥス、フランスではジェジュ・クリ、イタリアではジェズ・クリスト、スペインではヘスース・クリストなどと呼ぶそうです。

 

 イエス・キリストと呼ばなければ、神に受け入れられないというものではありません。それぞれ、同じひとりの人、神の御子を言い表わしているのです。

 イエス・キリストは、日本において、日本人を救う救い主です。アメリカでは、イエス・キリストではなく、ジーザス・クライストがアメリカ人の救い主です。

 神が地上に遣わされた神のひとり子は、すべての民族、すべての国々に現わされた、救世主なのです。

 

 あ~、本当にイエス・キリストが救世主であったと分かるのは、いつでしょうか。

 神のひとり子は、世界中の人々にそれぞれの名前で語っておられます。

 「わたし(神の御子イエス・キリスト)が道(天の御国に入ために進むべき道)であり、真理(天に導き入れる唯一の救世主)であり、いのち(永遠のいのちを得させるいのちのことば)なのです。

 わたし(神の御子イエス・キリスト)を通してでなければ、だれひとり父のみもと(天地万物の創造主、私たちを生かす魂の故郷)に来ることはありません。」(ヨハネ14:6)

 

 それぞれの宗教で、光の世界を求めたり、阿弥陀を求めたり、神代を求めたりしていますが、彼らが望みを持つ光の世界にも、阿弥陀のおられる所にも、神代の世界にも、創造主のまことのひとり子イエス・キリストによらなければ、そこに、到達できないと言っているのです。

 

 私たちの魂を、天にまで引き上げてくださるのは、復活の新しいからだで天に上がられたイエス・キリストの御名によるのです。