ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

十四万四千人の人たち

 

 ヨハネは見ました。

 「私は見た。見よ。子羊(復活されたイエス・キリスト)がシオンの山の上に立っていた。また子羊とともに十四万四千人の人たちがいて、その額には子羊の名と、子羊の父の名とがしるしてあった。

 私は天からの声を聞いた。大水の音のようで、また、激しい雷鳴のようであった。また、私の聞いたその声は、竪琴をかき鳴らしている音のようでもあった。

 彼ら(十四万四千人の人)は、御座の前と、四つの生き物および長老たちとの前とで、新しい歌を歌った。しかし地上から贖われた十四万四千人のほかには、だれもこの歌を学ぶことができなかった。

 彼らは女によって汚されたことのない人々である。彼らは童貞なのである。彼らは、子羊が行く所には、どこにでもついて行く。彼らは、神および子羊に献げられる初穂として、人々の中から贖われたのである。

 彼らの口には偽りがなかった。彼らは傷のない者である。」(黙示録14:1-5)

 

 ヨハネは、天に示される情景を見ました。シオン(神の都エルサレム)の山の上に、子羊イエス・キリストとともにいる十四万四千人の人を見ました。十四万四千人の人は、すでに地上の人ではありませんでした。

 肉体に死に、からだの贖われた霊の人(復活のからだの人)となっていました。キリストと心ひとつである十四万四千人の人は、イエス・キリストへの愛ゆえに、殉教した宣教者でした。

 

 彼らは女によって汚されたことのない人々でした。童貞でした。霊的に解釈すれば、人間がつくった宗教(偶像)によって汚れていない純粋な霊の人々です。偶像の神々を拝んだことがなく、どんな宗教にも関わったことのない人々です。

 ユダヤ教徒でもなく、キリスト教徒でもなく、仏教徒でもありません。宗教の組織の中に入ったことがありません。霊なる生ける神の道を生きる人々です。

 

 童貞ですから、十四万四千人の人は、男性でしょう。

 マスコミなどメディアは、しきりに甘美な空想を煽り、性欲を掻き立てています。童貞であること、処女であることは恥ずべき事であるように洗脳して、身を汚させます。

 世の人々は、性の快楽は、成熟した大人の証であって、勝ち誇るべきことであるかのように、思い違いさせられています。結婚(夫婦)以外の男女の行為は、悪霊との交わりであることを知らないのです。悪霊に操られているのです。

 

 世間では、性体験を謳歌する人々が闊歩して歩き、童貞や処女はみじめな日陰の存在であるとされます。彼らは、童貞や処女であることを恥ずかしいことと思っています。彼らには、童貞や処女が神の御前で価値のある尊いものであることを知ることができません。

 ほとんどの人は、世の罪に汚されており、聖い神を知ることができないのです。

 世の中は悪魔のもので満ちており、神の聖さを消す者たちを高く評価しているのです。しかし、それらのことは、この地上でのことです。天と地が滅びることを、彼らは知りません。

 

 神は、神の御子イエス・キリストの花嫁に、童貞を選んでおられます。神の国では、神の御子イエス・キリストが花婿で、人はすべて女性となります。それで、地上で男子であった人々も、天の御国ではキリストの花嫁なのです。

 キリスト教会では、キリスト信者はみな、キリストの花嫁と言われていますが、正確に言えば、十四万四千人の人がキリストの真実な花嫁なのです。

 

 地上から贖われた人々はすべて、神の子どもとされます。そのうち、十四万四千人の人は神の御子キリストの花嫁なのです。

 キリストの花嫁は、子羊キリストの行く所には、どこにでもついて行きます。彼らは、全人類の中から贖われ、また、神の子どもたちの中から召された、神および子羊キリスト・イエスに献げられる初穂なのです。

 

 十四万四千人の人は、最後の刈り取りのために全世界に出て行って、神の民(ユダヤ人と残りのキリスト者など)の救いのために、最後の宣教をする人々です。

 彼らの宣教により神に立ち返って信仰の土台に立つ人々は、その後の像や666の刻印の試みの時に、信仰によって永遠のいのちを得るのでしょう。そして、信仰の勝利者として御霊の教会に加えられるのでしょう。

 

 また、ヨハネが見た十四万四千人の人は、神の御前にいました。そこには、四つの生き物と長老たちがいます。

 ヨハネは、黙示録4章で、神の御座を見ています。

 御座に着いておられる方(神)は、碧玉や赤めのうのように見え、その御座の回りには緑玉のように見える虹がありました。また、その御座の回りには、白い衣を着て、金の冠を頭にかぶった二十四人の長老たちが座っていました。また、御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであり、御座の中央と御座の回りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいることが記されています。

 

 ヨハネが黙示録4章で見た神の御座の前で、十四万四千人の人は新しい歌を歌いました。十四万四千人の人だけが賛美することのできる歌でした。

 

 十四万四千人の人の口には偽りがありません。他の人に媚びたり、自分の益のために不真実なことを言ったり、利得のために不正をして世を渡り歩くような不正直な人ではないようです。真実を愛する純真な人々です。計算のない人々です。他の人から理解されず、のけ者にされたり、世の人々の和の中に入ることができなくても、光を見つめ、真実なことを求め続ける人々なのでしょう。

 彼らは、傷のない者です。邪念や邪心の無い者です。幼子のような純粋な心で純真な人々なのです。

 

 「『私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を与えてはいけない。』

 それから私(ヨハネ)が、印を押された人々の数を聞くと、イスラエルの子孫のあらゆる部族の者が印を押されていて、十四万四千人であった。

 ユダの部族で印を押された者が一万二千人、ルベンの部族で一万二千人、ガドの部族で一万二千人、アセルの部族で一万二千人、ナフタリの部族で一万二千人、マナセの部族で一万二千人、シメオンの部族で一万二千人、レビの部族で一万二千人、イッサカルの部族で一万二千人、ゼブルンの部族で一万二千人、ヨセフ(エフライム部族のこと)の部族で一万二千人、ベニヤミンの部族で一万二千人、印を押された者がいた。」(黙示録7:3-8)

 

 天変地異の世界の中で、一時、あらゆる災害がやむときがあるでしょう。それは、白い兄と卍と十字のしるしのある人と○のしるしのある人とが、世界中を巡って、十四万四千人のユダヤ人に印を押しているからです。

 ユダヤ民族十二部族のそれぞれの部族から一万二千人ずつ、印が押されます。この印とは、生ける神の印です。ヨハネが見た十四万四千人の額にあった「子羊の名と、子羊の父の名」のしるしのことです。十四万四千人のユダヤ人の思いに、救世主である神の子羊イエス・キリストの名と父なる神の名が書きつけられるのです。

 これらの十四万四千人の中に、ダン部族は含まれていません。神は、世界中に散っているユダヤ人の居場所も、また、何の部族に属するユダヤ人であるかも知っておられる全知全能の神です。それは、十代前にユダヤ人の血を持つ人かも知れません。あるいは、もっと以前の先祖の系図にユダヤ人がいる人なのかも知れません。

 

 使徒8:26-39には、不思議なことが書かれています。 

 主の使いがイエスの弟子のピリポに現われ、エルサレムからガザに下る道に出るように言いました。ピリポがそこに行くと、エチオピア人の女王カンダケの高官で、女王の財産全部を管理していた宦官のエチオピア人がいました。

 彼は礼拝のためにエルサレムに上り、いま帰る途中でした。彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいました。

 御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい。」と言われたので、走って行くと、イザヤ53章を読んでいるのが聞こえました。

 ピリポはそのエチオピア人に「あなたは、読んでいることがわかりますか。」と尋ねると、彼は、「導く人がなければ、どうしてわかりましょう。」と言って、ピリポに馬車に乗るように頼みました。

 宦官は、イザヤ53章に書かれていることがだれのことなのか、と聞きました。ピリポは、イザヤ53章を解き明かし、イエス・キリストについて宣べ伝えました。まさに、イザヤ53章は、神の御子イエス・キリストについて書かれていたのです。

 水のある所に来た時、宦官は馬車を止めさせて、水のバプテスマを授けられることをピリポに願いました。そして、ピリポも宦官も水の中に降りて行き、ピリポは宦官にバプテスマを授けました。

 

 「水から上がって来たとき、主の霊がピリポを連れ去られたので、宦官はそれから後ピリポを見なかったが、喜びながら、帰って言った。

 それからピリポはアゾト(アシュドテ)に現われ、すべての町々を通って福音を宣べ伝え、カイザリヤに行った。」(使徒8:39,40)

 

 聖書には、主の使いに言われたことにピリポが従ったこと、また、御霊の声に聞き従ったことが書かれています。また、主の霊がピリポを連れ去り、アゾトに現われたことも書かれています。

 聖書に記述されている時代や使徒の時代には、主の使いが頻繁に現われています。また、御霊が語り御霊の声に従う弟子たちのことが記録されています。そしてまた、主の霊が連れ去り、別の場所に移されたことも記録されています。

 

 白い兄とふたりの従者や印を押された人々(十四万四千人のユダヤ人に数えられる人々)も、このように、主の霊によって、世界中を行き巡るのでしょう。