ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

神に呪われたイエス

 

 「さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。 

 三時ごろ、イエスは大声で、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』と叫ばれた。これは『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。』という意味である。」(マタイ27:46)

 

 これは、十字架上で、イエスが、天の神に向かって叫ばれたことばです。マタイ書では、ヘブライ語で叫ばれていますが、マルコ書では、アラム語で叫ばれています。

 

 「さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。そして、三時に、イエスは大声で、『エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。』と叫ばれた。それは訳すと『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。』という意味である。」(マルコ15:33,34)

 

 「もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなた(イスラエル)がこれを木につるすときは、その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神に呪われた者だからである。」(申命記21:22,23)

 

 木にかける処刑は、神に呪われた者の処刑でした。

 石打ちの処刑は、聖なる神の民イスラエルから罪の汚れを取り除くためですが、十字架の処刑は、その罪人を永遠に燃え盛る火の池(永遠の死)に投げ込むものです。なぜならば、木にかけられる者は、神に呪われたものだからです。決して赦されることのない罪なのです。

 

 神の御子イエスは、全能の神であられるイスラエルの神はご自分の父であることを、ユダヤ人たちに語っておられました。そして、イスラエルの神(天の神)のことを、いつも、「父。」と呼んでおられたのです。

 イスラエルの神は、イエスにとって、父なのです。しかし、ユダヤ人たちは、そんなイエスを憎みました。イスラエルの聖なる方(聖なる神)を父と呼ぶイエスは、なんという不届き者なのでしょうか。ナザレのイエスは、イスラエルの神を冒瀆する者です。聖なる神を汚すイエスは、木にかけなければなりません。

 

 十字架にかけられたイエスは、父に向って「わが神、わが神。」と呼ばわりました。「アバ、父よ。」とは、言われませんでした。

 「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と叫ばれたのです。

 

 イエスの十字架には、「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」とへブル語、ラテン語、ギリシャ語で書かれた罪状書きが掲げられていました。総督ピラトが自ら書いた罪状書きでした。

 

 ユダヤ人の間を巡り、イスラエルの神がユダヤ人の罪を贖って成し遂げられる御救いについて語られたナザレのイエスは、「ユダヤ人の王」(と偽る騙す者)という罪で木にかけられました。

 

 イエスは、神のひとり子として十字架にかかられたのではありません。

 イエスは罪を贖う神の子羊です。人の子ナザレのイエスとして、十字架につけられました。ナザレのイエスは、神に呪われた死刑囚として、十字架で処刑されました。

 

 救い主イエスは、木にかけられ、神に呪われた者となられたのです。

 神の呪いとは何でしょう。罪の報酬の死であり、悪魔と悪霊どもが永遠に焼かれる火の池と永遠の死ではありませんか。

 

 神のことばから外れたことがなく、神のことばに完全に聞き従い、神に罪を犯さなかった人の子イエスが、聖なる神の民ユダヤ人たちによって、訴えられました。

 ナザレのイエスは神に呪われた者であり、木にかかる罪に該当する者、聖なる神の民イスラエルから取り除かなければならない忌むべき者であると、ユダヤ人たちは、イエスを罪に定めたのです。

 

 「総督ピラトは言った。『あの人(ナザレのイエス)がどんな悪い事をしたというのか。』しかし、彼ら(ユダヤ人たち)はますます激しく『(イエスを)十字架につけろ。』と叫び続けた。

 そこでピラトは、自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、言った。『この人の血(ユダヤ人の王ナザレ人イエスの血)について、私(ローマ人のピラト)には責任がない。自分たちで始末するがよい。(ユダヤ人たちが責任を取りなさい。)』

 すると、民衆はみな答えて言った。

 『その人(神の御子だと自称する偽ユダヤ人の王であるナザレのイエス)の血(を流す責任)は、私たち(ユダヤ民族)や子どもたち(ユダヤ人の子孫)の上にかかってもいい。(ナザレのイエスを処刑する責任は私たちユダヤ人にあります。ナザレのイエスの死の呪いは、死刑を執行するピラトではなく、ユダヤ民族やその子孫が受け取ります。ですから、ピラトよ。イエスを十字架につけてください。)』

 それで、ピラトは彼ら(ユダヤ人)のためにバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。」(マタイ27:23-26)

 

 ナザレのイエスを神の呪いとするために、ユダヤ人たちは誓いました。もし、イエスを処刑することが罪であるならば、その罪を我々(ユダヤ民族)が負おうではないか。それでもいい。それでもいいから、ナザレのイエスを十字架につけろ。

 こう言ってユダヤ人たちは、十字架の処刑が決まっていた囚人バラバという悪者を過越しの祭りの恩赦として釈放し、イスラエルの贖いと神の御救いをユダヤ人たちに宣べ伝え真理のことばを語る正しい人、ナザレのイエスを処刑したのです。

 

 ユダヤ人の王ナザレ人イエスは、十字架の上で、大声で叫ばれました。

 「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」

 ナザレのイエスは、呪われた罪人(死刑囚)として十字架にかけられ、十字架の上で神に向かって、心血を注がれました。

 

 そのとき、木にかけられたイエスは、神に呪われた者であったのです。神の怒りが、木にかけられた者の上に下ります。罪を犯していないイエスでも、木に掛けられた者は、神に呪われたものなのです。

 罪の呪いが、十字架につけられたナザレのイエスの上に、下ります。罪を犯していないなんて関係ありません。木にかけられた者の上には必ず、神の呪いが下ります。そして、処刑により罪人は神の呪いを受けて、地の底に下るのです。決して赦されることのない罪人です。

 

 落雷した避雷針のようです。イスラエルの神の、イスラエルの民への怒りが、神の怒りを受けるべきユダヤ人たち(神を義とせず、聖としない不信仰なユダヤ人たち)ではなく、ユダヤ人の王(イエス・キリスト)ただおひとりに下ったのです。

 

 罪を犯さなかったイエスは、ユダヤ人の王でした。ユダヤ人の王は、ご自分の民ユダヤ人たち(イスラエル)の罪を負って死なれたのです。

 ユダヤ人の王は、イスラエルの罪を贖うために、民(ユダヤ民族)の罪の身代わりとなられ、贖いの子羊となられたのです。

 

 ユダヤ人の王が、罪の贖いの子羊となって処刑されたので、イスラエル(ユダヤ民族とイエス・キリストを信じる民)の罪は贖われ、彼らの罪は赦されました。

 

 「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という叫びは、ユダヤ人の王イエスが身代わりとなって、ユダヤ人たちの叫びを叫ばれたのでした。

 イエスご自身のいのちのためではありません。神と契約を持つアブラハムの子孫イスラエルを救うためです。ナザレのイエスは、ユダヤ人の王、ユダヤ人のキリスト、約束のメシアなのです。

 

 神の民としてモーセの律法を守り、神が先祖アブラハムにお与えになられたカナンの地に住み、神の約束の実現を待ち望むイスラエル。長い間、神からいただいた聖書を守り、代々受け継いで来たユダヤ人。まことの神を恐れる唯一の民族ではありませんか。

 しかし、律法によって救われるのではありません。律法を守りたくても、完全な者であることはできません。

 

 「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私は善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することができないからです。

 私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。

 そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。

 すなわち、私は、内なる人(魂)としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法(欲望と自我)があって、それが私の心の律法(聖なる者でありたい)に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪のとりこにしているのを見いだすのです。

 私は、本当にみじめな人間です。だれがこの死(神にさばかれる罪)の、からだから、私を救い出すことができるのでしょうか。

 この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」(ローマ7:18-25)

 

 ナザレのイエスは、この罪の呪い、死のからだから救い出すために、イスラエルに来られた主キリスト(救い主)です。

 死のからだから救い出し、永遠のいのちと霊のからだとを与えられるメシアです。

 

 イスラエルへの神の呪いは、イエス・キリストが受けてくださいました。

 

 「全地が暗くなって、三時まで続いた。太陽は光を失っていた。また、神殿の幕は(上から)真二つに裂けた。

 イエスは大声で叫んで、言われた。

 『父よ。わが霊を御手にゆだねます。』こう言って、息を引き取られた。

 この出来事を見た百人隊長(ローマ人)は、神をほめたたえ、『本当に、この方は正しい方であった。』と言った。

 また、この光景を見に集まっていた群衆もみな、こういういろいろの出来事を見たので、胸をたたいて悲しみながら帰った。」(ルカ23:44-48)

 

 マタイ書には次のように書かれています。

 「百人隊長および彼といっしょにイエスの見張りをしていた人々は、地震やいろいろの出来事を見て、非常な恐れを感じ、『この方はまことに神の子であった。』と言った。」(マタイ27:54)

 

 異邦人は、十字架で処刑されたナザレのイエス(ユダヤ人たちに捨てられた神の子羊イエス)を見て、神を恐れ、「この方は本当に神の子であった。」と告白しました。

 

 「キリストは、私たちのために(神に)呪われた者となって、私たちを律法の呪いから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべて呪われたものである。』と(聖書に)書いてあるからです。

 このことは、アブラハムへの祝福(アブラハムの子孫イスラエルが受け継いだ御救いの祝福)が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、(救い主イエス・キリストを信じる)私たちが信仰によって約束の御霊(もうひとりの助け主である真理の御霊)を受けるためなのです。」(ガラテヤ3:13,14)