ダビデ王は、家来ウリヤの妻の美しさに惑い、彼女(バテ・シェバ)を召し入れて彼女と寝ました。
バテ・シェバが身ごもったことを知ると、ダビデは彼女の夫ウリヤを激戦地に送り戦死させて、彼女を自分の妻としました。
神は預言者ナタンをダビデのところに遣わし、ことばを与えられました。
富んだ人が自分のものを惜しみ、貧しい人が育てていた一頭の雌の子羊を取り上げて、自分の客人のために調理をした。その雌の子羊は、貧しい人の子どもたちといっしょに暮らし、貧しい人と同じ食物を食べ、貧しい人が自分のふところでやすませていた、まるで彼の娘のような子羊だった。貧しい人は、この子羊のほかは、何も持っていなかった。
それを聞いたダビデは、激怒してナタンに言いました。
「主は生きておられる。そんなことをした男は死刑だ。その男(富んだ人)は、憐れみの心もなく、そんなことをしたのだから、その雌の子羊を四倍にして償わなければならない。」(サムエル第二12:5,6)
すると、ナタンはダビデに言いました。
「あなた(ダビデ王)がその男です。イスラエルの神、主はこう仰せられる。『わたし(イスラエルの神)はあなた(エッサイの子ダビデ)に油を注いで、イスラエルの王とし、(王の油を注がれたダビデの命を狙う、イスラエルの先の王ベニヤミン族の)サウルの手からあなたを救い出した。
さらに、あなたの主人の家を与え(ダビデが仕えたサウル王の王位をサウルから取り除いて、神はダビデにお与えになられた。)、あなたの主人の妻たちをあなたのふところに渡し、イスラエルとユダの家(キリストを生むユダ族の王家)も与えた。
それでも少ないというのなら、わたし(神)はあなた(ダビデ)にもっと多くのものを増し加えたであろう。」(第ニ12:7,8)
なぜ、王の権力を使ってウリヤのものを奪い、自分のものにしようとしたのか。ウリヤの妻バテ・シェバのように美しい女を妻にしたいならば、ダビデの望む美しい女を妻に与えたではないか。
今ある王位と王家と財産に不足しているものがあるなら、神は喜んでダビデに与えると言っておられるのです。他人のものを取らなくても、奪わなくても、神御自身がダビデの不足分を満たすと仰せられたのです。
人は自分のはかりではかりますが、神は人がはかる以上に豊かなお方です。肉の父とは違います。限りなく豊かな父なのです。与えたなら乏しくなってしまうような限りある財産とは違います。すべてをもっておられる神です。
世界中のすべての人が神に願えば、それらの祈りを一つ一つ聞き分け、ひとりひとりに必要なものを惜しみなく与えられる神であり、無から有を生じさせられる生けるまことの神なのです。
ダビデは忠実なしもべであり、勤勉な者です。ダビデに与えても、ダビデが没落するような怠け者ではないことを神は知っておられます。
ナタンはダビデに神のことばを続けました。
「それなのに、どうしてあなた(ダビデ)は主のことばをさげすみ、わたしの目の前に悪を行なったのか。(ダビデは神のことばを侮り、その命令を破って、他人の妻と姦淫をし、その夫を殺した。ダビデは、他人のものを欲しがって、盗み、姦淫し、殺し、その罪を何事もなかったかのように工作し偽った。)
あなた(ダビデ)はヘテ人ウリヤを剣で打ち、その妻を自分の妻にした。あなたが彼をアモン人の剣で切り殺したのだ。(人の目にウリヤは戦場で死んだように見えますが、それはダビデのはかったことであって、神の目には、アモン人の手によってダビデが殺したのです。)
今や剣は、いつまでもあなた(ダビデ)の家から離れない。あなたがわたし(神)をさげすみ、ヘテ人ウリヤの妻を取り、自分の妻としたからである。」(サムエル第二12:9,10)
こうして、神はダビデの罪の報いをダビデとダビデの家に返されました。そして、ダビデの行ないは、神の敵である悪魔に大いに侮りの心を起こさせたので(イスラエルの神が愛されるイスラエルの王ダビデが、神の律法をことごとく破り、律法に反して神を侮ったのですから、ダビデは主の聖なる御名を汚しました。このことにより悪魔は、ダビデの罪を嘲笑い、神を侮ることとなったのです。)、バテ・シェバから生まれた子を死なせられました。
主を侮るならば、神はその報いを与えられます。しかし、神に忠実な者の祈りは聞き届けられるのです。ダビデも自分の力で得ようとせず、神に求めたならば、豊かな神は惜しみなく、ダビデに与え、ダビデは罪を犯さなくてよかったのです。
ナオミの死んだ息子の嫁モアブ人のルツは、ナオミと自分を養うために、落穂拾いに出かけました。
ナオミの亡夫の親戚のボアズは、外国人のルツがユダヤ人の姑ナオミのために良いことをし、自分の故郷を捨てて、ナオミの神(イスラエルの神)を頼ってナオミとともにイスラエルにやって来た事を知っていました。
ボアズは自分の畑で落穂拾いをするルツに言いました。
「主があなたのしたことに報いてくださるように。また、あなた(ルツ)がその翼の下に避け所を求めて来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。」(ルツ2:12)
「食事のとき、ボアズは彼女(ルツ)に言った。
『ここに来て、このパンを食べ、あなたのパン切れを酢に浸しなさい。』(ボアズは刈る者たちと同じように、落穂拾いのルツを扱いました。)
彼女(ルツ)が刈る者たちのそばにすわったので、彼(ボアズ)は炒り麦を彼女に取ってやった。彼女はそれを食べ、十分食べて、余りを残しておいた。」(ルツ2:14)
ルツは十分に食べたのです。姑ナオミに残すために少しだけしか食べなかったのではありません。
「ルツは拾い集めた落穂を打ち、それを持って町に行き、姑にその拾い集めたのを見せ、また、先に十分食べてから残しておいたの(炒り麦)を取り出して、彼女(姑)に与えた。」(ルツ2:18)
私は、このルツ記を呼んだとき、神の豊かさを思いました。姑に与えるために、ルツは自分の食べる分を減らして我慢したのではありません。十分に食べたのです。
神は、与える者に、豊かにお与えになる神です。
「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量をよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、(あなたがたの)ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量り返されるでしょうから。」(ルカ6:38)
「あなたがたは、悪い者(罪を犯す性質の者)であっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父(創造主)が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。
それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」(マタイ7:11,12)
「(死と死後の裁きとが定められ滅ぶはずの罪人の)私たちすべてのために、御自分の御子(ひとり子)をさえ惜しまずに死に渡された方が(天の父は、私たちに永遠のいのちを得させるために、御自分のひとり子〈イエス・キリスト〉を十字架につけ、贖いの血を流されました。)、どうして、御子(神の子羊イエス・キリストのいのち、すなわち生かす御霊)といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」(ローマ8:32)
神がひとり子を私たちにくださったとき、ひとり子の所有するものすべて(聖霊〈真理の御霊〉と永遠のいのちと天の御国)をも私たちにお与えになったのです。
神の御子イエス・キリストはいつも父に祈り、神から与えられて、乏しいことがありませんでした。
イエス・キリストを信じる私たちは、神の御子の道を歩む者です。イエス・キリストの御名によって父なる神に祈ると、御父から与えられて、乏しいことはないのです。
「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。(神の用意される環境の中で養ってくださいます。)
主は私の魂を生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。(神はいのちの御霊を与え、神の御子イエス・キリストの契約ゆえに、永遠のいのちを得させられるいのちの道へと導かれます。)
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。(この世のことは過ぎ去るものです。永遠の望みを与えてくださる)あなたが私とともにおられますから。
あなたのむちとあなたの杖(道を外す私に正しい道を教え、正しい道に戻してくださるむちと杖)それが私の慰めです。(神の愛がここにあることを知り慰められます。)
私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油を注いでくださいます。(私が信仰を失うように攻撃し苦しめる敵〈悪い者〉の前で、神は私を御自分のものであると証し、新しい力を注いでくださいます。)
私の杯は、あふれています。(神は、味方もなく敗者のように弱っている私に、信仰の勝利を祝い、勝利の祝杯をあげてくださるのです。)
まことに、私のいのちの日の限り、慈しみと恵みとが、私を追って来るでしょう。(常に脱出の道が用意されており、苦難をくぐり抜けると強くされ、すべてのことが益となっているのです。)
私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。(神の慈しみと恵みを知る私は、この世にあって、主の支配のもとに留まりましょう。)」(詩篇23)