「群衆の中のひとりが(イエスに)、『先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください。』と言った。
すると、(イエスは)彼に言われた。『いったいだれが、わたしをあなたがた(ユダヤ人たち)の裁判官や調停者に任命したのですか。』
そして(イエスは)人々に言われた。『どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。』
それから人々にたとえを話された。
『ある金持ちの畑が豊作であった。
そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。「どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』
そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分の魂にこう言おう。「(わが)魂よ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』
しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえの魂は、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』
自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」(ルカ12:13-21)
イエスは、天から来られた神のひとり子です。父であられる、創造主にして裁き主なる全能の神の御心を成し遂げるために、神に遣わされたのです。
神の御心とは、死と裁きとが定められている罪人に、全能の神であられる御父を知らせ、天の御国を知らせ、そして、神が用意される罪の贖いと罪の赦しと永遠のいのちとを得させることでした。
死と裁きと滅び(永遠の死)も、御救いと永遠のいのちも、全知全能の神の御手の中にあるのです。
神の子羊イエスが来られる以前は、死と裁きしかありませんでした。人類の末路にあるのは、悪魔の裁きのために用意された火の池だけです。神に背いた人々の結末です。
ただ、神は、神が祭司の民としてお造りになられたユダヤ民族には、御救いを告げておられました。メシアを遣わす、と知らされていたのです。すなわち、神が遣わされるメシアによらなければ、すべての人類の結末は火の池でした。
神が仰せられる「メシア」とは、人類にすでに定められている火の池の宿命を変えて、人の末路を、神との和解によって永遠のいのちを得させ天の御国へと導く「真理の御霊」を授けるキリストのことです。
キリストが、ご自分の血によって罪人の罪を贖い、神が、キリストの血の贖いを信じて罪を悔い改める贖われた人々の罪を赦して義とされ受け入れられることで、神にそむいた罪人と罪人を赦す神との間に和解を成立されるのです。
神に罪あるままの人は、神の御国に入ることができません。神の御国は、神が「主」である世界です。神の国の主語は、神御自身です。「わたし」は、神おひとりであって、すべてのものの「私」は神の中にあるのです。
だれも、「私」を主張しません。なぜならば、「私」は「わたし」であって、神とひとつだからです。
この地上では、「私」が生き、主張します。「わたし(主)」に繋がっていないからです。
兄弟に私と遺産を分けるように、とイエスにお願いしたユダヤ人は、天のことを思わない普通の人です。
イエスは、天のことを告げるために来られたのです。しかし、人は、地上の問題で頭がいっぱいなのです。
イエスは、人をさばくために来られたのではありません。人の罪を負うために来られました。人の罪を負うには、まず、人々が自分に罪があることを知らなければなりません。
この地上では、物質の豊かさがほめそやされます。多くのものを持つことが豊かで安心だと思うのです。それは、魂のゆくえを悟らない人々の姿です。
物質欲は増殖し、世界を覆っています。コロナなどの死を伴う疫病には、みなが真剣に対策を練りますが、物質欲の害はもっと根深く恐ろしいものであること、また、いのちをむしばむものであることは理解できません。
この世では、人一倍努力して豊かになる人々をたたえます。彼らは、人生の成功者に名を連ねます。物質的豊かさは、その人に付加価値を与えます。人格的にすぐれていなくても、お金があることで、多くの人々が彼におもねります。
イエスは天から来られました。天のことを教えられます。貪欲は警戒すべきであると言われます。
いくら豊かな人でも、その人のいのち(の保障)は財産にあるのではない、と言われます。お金があっても、死ぬときには死ぬのです。
イエスは、たとえを話されました。
お金持ちは、豊かさに豊かさを増し加え、自分がおのれの「主」となって生きています。その豊さが自分の命の保障であるかのように安心して、自分のうちにある豊かさに頼みを置くのです。
しかし、その豊さを与えておられるのは、主です。いのちを与えられる神です。たとい、悪魔や悪霊どもの力によったとしても、神の許しがなければ、そのことは実現しません。
その金持ちが、自分の豊かさに命の保障を見いだしたとき、神は、豊かさを取り除くのではなく、なんと、その人自身の命を取り去られました。
豊かさを取り除かれるのは、その人にまだ、救いの望みがあるときです。神が憎む人(悪魔を頼みとする人)には、豊かさに豊かさを増し加え、そして、命を取り去られることがあります。彼には、悔い改める余地が与えられません。
神は、永遠のいのちこそが、永遠に価値のあるすぐれた豊かさであることを御存じです。知らないのは、天のことを思わない人間です。
この地上で、お金持ちになり、物質的に豊かな者、栄えある者となったからといって、どうでしょう。それには、終わりがあるのです。必ず、終わりがあるのです。
農民から武将に、関白へと上り詰めた豊臣秀吉は、最もすぐれた成功者でした。
しかし、病によって息を引き取る秀吉は何と言ったでしょうか。秀吉は働きの最中で、彼が努力して得たものすべてを残して死ななければならないのです。
「露と落ち露と消えにしわが身かな 浪速のことは夢のまた夢」
おそれられ、もてはやされた豊臣秀吉の人生は、はかないものだったのでしょうか。
神を知るイエスは言われます。
豊かさに安心している者に立ち向かい、神は虫けらのように消し去られます。
「愚か者。おまえの魂は、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。」(人間は知らないでいますが、ひとりひとりの命は神の御手の中にあるのです。)
自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりだと、イエスは言われます。
人の目には、富んでいても、神の目には、貪欲な愚か者なのです。愚か者は、死後の裁きの備えをすることがないのです。
天の御国では、貧しい者に分け与える者が賞賛されます。自分で財産をかかえて、心を太らせる者ではありません。そのような人は、自分を豊かにしてくださる源(神)を知り、感謝する者なのです。そして、この方(神)に栄光をお返しする者なのです。
自分を生かしてくださるお方を知るならば、この方により頼んで生きることが、永遠に続く生き方です。
「もっともっと‥」ではなく、自分の持っているものを感謝する平安な心です。画家ミレーの「晩鐘」に描かれています。その日その日の成すべきことをし、感謝して一日を終える生き方です。
そこには、そねみや争いはありません。その心の隣に神はおられます。
自分にあるものに感謝し、満足する者には喜びがあります。
持っているのに足りないと思う心が、他人と比較し、もっともっとと自分を否定し追い込みます。自分で自分を痛めつけ自分の幸せをぶっ壊しているのです。悲しすぎます。
足ることを知るのは、永遠の豊かさへ続く道です。
神が与える豊かさは永遠のものです。永遠のいのちを得ないで、どうして、永遠の安息を受けることができるでしょう。神は、人に永遠の安息(天の御国)を得させるために、キリストを遣わされたのです。
キリストは、真理の御霊を授ける救い主であり、永遠のいのちを得させるメシアなのです。
「あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」(マタイ6:34)