ペテロはイエスに言いました。
「ご覧ください。私たち(弟子たち)は、何もかも捨てて、あなた(天の御国を告げ知らせるナザレのイエス)に従ってまいりました。
私たちは何がいただけるでしょうか。」(マタイ19:27)
「そこで、イエスは彼ら(弟子たち)に言われた。
『まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子(ナザレのイエス)がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがた(十二使徒)も十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。
また、わたし(イエス・キリスト)の名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。
ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」(マタイ19:28-30)
神が選ばれたイエスの弟子たちは、何もかも捨てて、ナザレのイエスに従って来ました。イエスの宣教開始から十字架の死に至るまで、イエスの公生涯(神の御国のための宣教の働きに専念された三年半)の間、連れ添って来ました。
ペテロの問いかけは、イエスが、「金持ちが天の御国にはいるのはむずかしい。」と言われたことへの疑問でした。
弟子たちは、イエスのことばに大変驚きました。そして、言いました。
「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」
この当時も、現在と同じだったようです。金持ちは世間から評価される人々だったようです。金持ちの意見が通る世であり、貧しい者は社会的立場の低い者です。
豊かさは神の祝福のようなイメージがあります。この世で豊かな者たちが、天の御国から遠いところにいるとだれが思うでしょう。
イエスはそんな彼ら(弟子たち)をじっと見て言われました。
「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」
「だれが救われるのか。」の問いに、イエスは、「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」(マルコ10:27)と答えられました。しかも、弟子たちをじっと見て言われたのです。
金持ちは、世間では優遇されます。貧しい者がどんなにすぐれた意見を言っても、かき消されます。人々は内容よりも、社会的信用を優先します。
お金は、信用度をはかるために、だれにでもわかるはかりなのです。
この世で、お金のない人々は社会的に信用されません。お金のない者は、一人前の社会人としての扱いを受けるには欠けがあるのです。
社会的信用を持ちたければ、社会に認められる程度の財産を必要とします。社会的信用を求める者は、努力して財産をつくるでしょう。
しかし、魂を救う神はそうではないようです。社会的信用は人間社会のものであって、魂の値打ちは社会的信用とは関係がないようです。
イエスは、祭司長や民の長老たちに言われました。
「まことに、あなたがたに告げます。取税人(民からだまし取って私腹を肥やすお金の亡者)や遊女(不品行によってお金を得る者)たちのほうが、あなたがたより先に神の国にはいっているのです。
というのは、あなたがたは、(バプテスマの)ヨハネが義の道(ナザレのイエスを世の罪を取り除く神の子羊と証言し、神が遣わされた神の御子キリスト・イエスをイスラエルに信じるようにと、救いの道の宣教)を持って来たのに、彼(主キリストの宣教の道を備えるように、神がイスラエルの人々に遣わされたヨハネ)を信じなかった。(イスラエルの祭司長も民の長老たちも、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けることがありませんでした。そして、イスラエルの神が約束どおりイスラエルに遣わされた神のキリスト・イエスを拒絶しました。)
しかし、取税人や遊女たちは彼(神の御子キリスト)を信じたからです。しかもあなたがた(祭司長や民の長老たち)は、それを見ながら(多くのユダヤ人たちがヨハネから水のバプテスマを受け、ナザレのイエスを神が遣わされたキリストであると信じたのを知っていたのに、また、十字架の上で、ユダヤ人たちの赦しを祈られたナザレのイエスを見ていたのにも関わらず)、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。(御使いが現われて墓が開き、イエスが墓から甦ったことを番兵から聞いて、ナザレのイエスが神の御子キリストであるという事が明らかにされたのに、自分たちの背きの罪を悔いることもなく、それでも尚かたくなに、イエスを信じなかったのです。)」(マタイ21:31,32)
「金持ちが天の御国に入るのはむずかしいことだ。」とイエスは言われました。「神にはどんなことでもできる。」と言われるイエスが言われたのです。金持ちが御国にはいるのは、神をもってしても難しいということです。なぜならば、金持ちの心はこの世のことでいっぱいで、神に向かないからです。また、自分には罪がないと思うのです。
金持ちの中には、物質的な金銭の豊かさによって心が太り、高慢な人もいるでしょうし、豊かな知識と経験を持ち自分が完全な者であるかのように振る舞う人もいるのかも知れません。いずれにしても、神にへりくだる柔らかな心を持っていません。自分が偉い者であるかのように思っている彼らは、自分に罪を認めません。自分は神に受け入れられる良い人であると考え、自分で自分を義としているのです。
神の御国は、神に義と認められる人々がはいるところです。
自分に罪はない、自分は正しいと思う者たちに、キリストは歓迎されません。
神の義は、神が遣わされた救い主イエスを信じ、自分の罪を言い表わして、罪を悔い改めて、キリストの血によって神と和解した人に与えられます。神は、そのような人の罪を赦し、真理の御霊によって心を調べ、新しい人に造り変えられます。御霊の新しい創造を受けた人々が、神の御国に招かれます。
なぜならば、彼らは、神が遣わされたキリスト(救い主)を信じ、神が遣わされた真理の御霊(もうひとりの助け主)を受け入れるからです。
イエスは、イエスとともに神の道を歩んで来たペテロたちに言われました。
「世が改まって人の子(キリスト・イエス)がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二部族をさばくのです。」
約二千年前、イエスは地上を歩んでおられたとき、世が改まった後の世界でのイエスと使徒たちとの関係を語っておられました。
イエスは、悪魔や悪霊どもが我が物顔で働く地上の世界から悪霊どもが滅び、悪魔が取り除かれて、争いのない平和なキリストの世界が必ず来ることを当たり前のように告げ、イエスが争いのない平和な新しい世で、世界の国々を治めるイスラエルの王の座に着かれるそのとき、イエスに従って来た使徒たちは、十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくと言われました。
イエスは、イエスとともに歩みイエスに従って来た十二使徒をイスラエル十二部族の十二の座に着かせて、イスラエルの王であるキリスト・イエスとともに、新しい世を治めることを、神が定めておられるのを知らされました。
新しい世の王の王であるイエス・キリストと、キリストに仕えてイスラエル十二部族を治める十二使徒は、神によって定まっています。
神は、アブラハムやダビデ王に約束された、世界の国々を治め世界の光・世の希望のイスラエル王国を地上に建てて、世の罪を取り除き世界を救った神の子羊キリスト・イエスを王座に着かせ、イエスに従った十二使徒がイスラエルの十二部族を治めることを定めておられます。
イエス・キリストを信じるキリスト教会の国が建つのではありません。
聖書の契約を持つ割礼の民ユダヤ人の国が建つのではありません。
神が世を改められると、神の義(神の子羊の血による赦しと真理の御霊による永遠のいのちの信仰)を受けて神と和解した人々、すなわち神が遣わされた救世主「神の子羊イエス・キリスト」のもとに集められた新しい創造の人々を国民とする、「とこしえのイスラエル王国」を建てられます。
キリストは、とこしえのイスラエル王国の国民をつくるために、神が選ばれた十二使徒とともに歩まれました。
神の御救いの約束を持つユダヤ人たちは、新しいイスラエル王国(とこしえのイスラエル王国)の王(イエス・キリスト)を拒みました。神の律法に仕え、忠実な神のしもべと思われていた祭司長や民の長老たちは、神の招きを拒みました。そして、祭司長や民の長老たちに聞き従うユダヤ人たちもまた、神の招きに応じませんでした。
ユダヤ人のだれからも罪人だと思われていた取税人や遊女たちは招きに応じ、彼らよりも先に神の国にはいりました。
神は不信仰なユダヤ人をかたくなにして、異邦人に御救いをお与えになりました。無割礼の者たちがキリストを信じ、割礼を誇るユダヤ人よりも先に御救いにはいりました。
異邦人のキリスト教会は、ユダヤ人たちと同じ過ちを繰り返します。自分たちは御救いにふさわしい者と高ぶる彼らは、真理の御霊に鈍い者となりました。
真理の御霊は、キリスト教会の垣を越えて、真理に飢え渇く人々のところに訪れます。終わりの日には、キリスト者たちが神から遠く離れていると思っている異教徒たちにも、真理の御霊が注がれます。
そのとき、真理の御霊を受けた異教徒や異邦人が先に、神の国にはいります。自分たちは救われていると高ぶっていたキリスト者たちはなんと、彼らの後となります。
キリスト教会に所属していた人々も、神道や仏教やユダヤ教などキリスト教以外の異教徒や無宗教者たちも、真理の御霊によって、同じ永遠のいのちを受けるのです。
ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。