「もし(イエス・キリストの福音を信じる)私たちが、(私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所(天)にはいることができるという)確信と、(私たちは神の御子イエス・キリストにあってキリストを信じる信仰により大胆に確信をもって神に近づくことができるという)希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家(神の御霊が宿る神の神殿)なのです。
ですから、聖霊が言われるとおりです。
『きょう、もし御声を聞くならば、(先祖たちが、何もない)荒野での(ただ信仰により神の御声だけを頼みとする)試みの日に(不信仰によって神の)御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。(神への信仰を投げ捨ててはならない。)
あなたがた(神の民ユダヤ民族)の先祖たちは、そこ(神への信頼が試される試みの荒野)でわたし(天の神)を試みて(神は本当にイスラエルを愛しておられるのか、イスラエルを救い出す力があるのかと)証拠を求め、四十年の間、わたし(全能の神)のわざを見た。
だから、わたし(創造主)はその時代を憤って言った。
彼らは常に心が迷い(神のことばとひとつになれず)、わたしの道(信仰によって歩むいのちの道)を悟らなかった。
わたし(裁き主)は、怒りをもって誓ったように、決して彼ら(神の栄光のわざを見ながら、神を信じなかったその時代のユダヤ人たち)をわたしの安息(天の御国)にはいらせない。』
(イエス・キリストにある信仰の)兄弟たち。あなたがたの中では、だれも(目に見える現状に心奪われて)悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。(おそらく、あなたがたのうち生ける神を離れようとする不信仰の悪しき心を抱く者があるだろう。)
『きょう。』と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪(人々の欺く言葉やもっともらしい偽りの言葉に)に惑わされてかたくなに(神に対して不信仰に)ならないようにしなさい。
もし最初の(神の御子イエス・キリストによって天の御国に迎え入れられるという信仰の)確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者(天の御国にはいるキリストの兄弟)となるのです。
『きょう、もし御声を聞くならば、(神の)御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。』と言われているからです。
(神の御声を)聞いていながら、御怒りを引き起こしたのはだれでしたか。(荒野の先祖はみな、モーセを通して、神の御声を聞いていたのです。彼らは、神の御心を教えられていたのです。)モーセに率いられてエジプトを出た人々の全部ではありませんか。(神は、先祖の契約どおりに、先祖の地カナンへと導き入れるために、イスラエルを奴隷の家エジプトから導き上られたのです。)
(契約に忠実な)神は(荒野での)四十年の間だれを怒っておられたのですか。(不信仰の)罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした(神の怒りを買って荒野で打たれ、聖なる選びの民イスラエルから断ち滅ぼされた先祖)、あの人たちをではありませんか。
また、わたしの安息(みことばの成就、すなわち、約束の地に神が与えるイスラエルの国)にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、(神が召された神のしもべモーセに)従おうとしなかった人たちのことではありませんか。
それゆえ、彼らが安息(神の約束された地)にはいれなかったのは、(ユダヤ人たちの)不信仰のためであったことがわかります。」(へブル3:6-19)
神が約束された地に、荒野のユダヤ民族がはいれなかったのは、神の助けの御手が足りなかったからではありません。
神は、イスラエルに約束しておられました。
「わたし(神である主)はあなた(イスラエル)に地の高い所を踏みゆかせ、あなた(イスラエル)の父ヤコブのゆずりの地(アブラハムからイサクへ、イサクからヤコブへとゆずられたカナンの地)であなたを養う。」(イザヤ58:14)
主の御口が語られた約束です。
しかし、四百年の間、エジプトで奴隷であったユダヤ民族の成人男性六十万人のうち、父ヤコブのゆずりの地(カナンの地)にはいったのは、ヨシュアとカレブのふたりだけでした。ヨシュアとカレブの心は、神の約束から離れず、神ととともにあったのです。
「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。
あなたがた(イスラエル)の(神を信じず、神とひとつになっていない)咎が、あなたがた(イスラエル)とあなたがたの神(イスラエルの神)との仕切りとなり、あなたがたの罪(不信仰)が(神の)御顔を隠させ(不信仰の罪によって隔てられると神が見えなくなり、神がわからなくなった。)、(神が祈りを)聞いてくださらないように(イスラエルみずからが)したのだ。」(イザヤ59:1,2)
神と人とを結ぶのは、信仰によります。信仰がなければ、神と繋がることはできません。
神は、ユダヤ人のモーセを召してイスラエルに遣わし奴隷の家エジプトから連れ出して荒野で試み、試みの荒野で残された信仰の人々を、約束の地(イスラエルの父ヤコブのゆずりの地であるカナン)に、モーセの従者ヨシュアによって導き入れられました。
この世のカナンの地にはいるのさえ、神は、約束の民に荒野の試みを通されました。神は、約束から遠く離れ希望が持てないような荒野の環境で、彼らの信仰を試されました。
神の約束の地は、信仰によってはいるようです。人間同士の契約とは異なります。神との契約は、神への信頼と信仰が保証となります。
地上の約束の地にはいるのでさえ、試みの荒野が伴ったのであれば、とこしえの安息が約束された天の御国にはいるためには、本物の信仰でなければなりません。
口先だけの信仰のメッキは剥がれます。
「主は仰せられます。
『この民(神の民)は口先で(神に)近づき、くちびるで私(天の神)を崇めるが、その心はわたし(天の神)から遠く離れている。
彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことにすぎない。(彼らが、神を拝んでも、むだなことである。神は、それを受け入れられないからだ。)
それゆえ、見よ、わたしはこの民に再び不思議なこと、驚き怪しむことをする。この民の知恵ある者の知恵は滅び、悟りあるものの悟りは隠される。』」(イザヤ29:13,14)
イスラエルを奴隷の家エジプトから連れ上った主は、終わりのときに、悪魔の奴隷の家、すなわち罪と滅びのこの世から救い出して、とこしえの安息(天の御国)にはいらせるために、神のひとり子に肉体を造り「人の子」(イエス・キリスト)として、天から遣わされました。
神の御子イエス・キリストは、十字架の死によって悪魔の支配力を滅ぼし、神の子羊イエスの血によって、死と裁きに定められた魂を買い戻されました。
神のひとり子イエスは、ユダヤ民族が守ってきた律法では成し遂げることのできない罪の贖いと永遠のいのちとを得させる「キリスト」です。
モーセは、この時代のことを語っていました。
「あなたの神(イスラエルの神)、主は、あなた(ユダヤ民族)のうちから、あなた(ユダヤ人)の同胞の中から、私(奴隷の家エジプトからイスラエルを連れ上り、荒野へと導き入れたモーセ)のようなひとりの預言者(祭司、王、キリストの油を注がれた預言者)をあなた(神と契約を結ぶ民イスラエル)のために起こされる。彼(キリスト)に聞き従わなければならない。」(申命記18:15)
また、神は、神が遣わされる唯一のキリスト(神の御子イエス・キリスト)に聞き従わない者は、イスラエルから断ち滅ぼすとも言っておられます。
すなわち、神の律法を有する選びの民であっても、イエス・キリストを信じない者を滅ぼし、神が彼らに用意しておられる「永遠の安息」すなわち、「天の御国」にはいらせないと、堅く誓っておられます。
神と人とを結ぶものは、信仰です。神は、その信仰を、御自分のひとり子を遣わすことで、明確にされました。
肉体を持ち、「人の子」の姿で来られた神のひとり子イエス・キリストを信じることが、神と人とを結ぶ信仰なのです。
約束のカナンの地にはいらせるために、イスラエル(契約の民)を、奴隷の家エジプトから連れ上ったモーセのように、イエス・キリストは、死と裁きに定められた世のいのちから救い出し、神の御子イエス・キリストによって神と新しい契約を結ぶ神の民に「もうひとりの助け主」(真理の御霊)を与え、天の御国へと導かれます。
荒野にはいったイスラエルは、荒野で試みられました。神の試みを経て、信仰に勝利した者たちは、神が新しくお立てになられたヨシュアによって、カナンの地にはいりました。
終わりの時代、御霊によって荒野に導かれ火(試み)のバプテスマを受ける人々は、信仰を持ち続けることで、天の御国に招かれます。
助け主(真理の御霊)に教えられ生かす御霊によって新しく造り変えられた人々は、試みの中でも信仰を持ち続けた信仰の勝利者として、御霊の教会にはいり、神に約束された天の御国(とこしえの安息)にはいるのです。
「御子(イエス・キリスト)を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのち(天の御国のとこしえの安息)を見ることがなく、神の怒り(裁き)がその上に留まる。」(ヨハネ3:36)
新しく創造される神の民の課題は、どんなに惨めで苦しくても、イエス・キリストへの信仰を持ち続けることです。
イエス・キリストが授けてくださる「真理の御霊」が、「これが道だ。これに歩め。」と導き、助けて下さいます。
神は、信仰を持ち続け信仰の勝利者として天の御国にはいる恵まれた者とするために、もう一人の助け主「真理の御霊」を与えてくださいます。
御霊は、御霊の祈りを与え、御霊の喜び、御霊の平安を得させ、信仰に勝利する者とし、とこしえの安息へと導かれます。