ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

聖である神の前に立つ

 

 「神のことばは生きていて、力があり、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。

 造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明するのです。」(へブル4:12,13)

 

 神のことばには生命があります。能力があります。両刃の剣よりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺し通して、心の思い(念)と志望とをためし見分けることができます。

 そして、神の御前には、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのです。

 この聖なる神に対して、私たちは言い開きをしなくてはならないのです。

 

 聖書を信じる民は、神が聖であることは知っている、神が創造主であることも裁き主であることも知っている、と思うかもしれませんが、その聖なる神の前に立つ者としての自覚がどれほどあるのでしょうか。

 

 聖書を知らない日本神道の人々は終わりの時が近いことを知って、身魂磨きに励みます。自分自身の身魂がきよくなければ、聖なる神に受け入れられないことを感じているからです。

 

 神の子羊の血で罪が贖われたことを信じるクリスチャンは、人間の努力によるきよめではなくすでにキリストの血により罪が赦されているからと、信仰によって安心しているのかも知れません。

 

 神は言われます。

 「わたしが聖であるから、(神の民である)あなたがたも聖でなければならない。」

 

 クリスチャンは、神の御子イエス・キリストを信じて、罪は贖われ、神の御国にはいる用意はできていると思うかも知れません。

 

 聖書は罪を言い表わすことの大切さを言っています。

 「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(ヨハネ第一1:9)

 

 確かに、キリストの贖いの血によって私たちの罪は赦されました。

 しかし、私たちが自分の罪を言い表わしていないならば、その罪は残されたままです。

 

 神道の人や仏教の人たちは、聖書の神を信じているわけではありませんが、神は聖いもの、また、煩悩のままで涅槃に行けるとは思っていません。

 善いところに行くために、善い者になろうとする心があります。自分は、そこに入るにはふさわしくない者だと感じるから、ふさわしい者になるために善行に励み、悪い心を自分のうちから取り除こうと努力することでしょう。

 

 神は、すべて造られたもののいろいろな考えやはかりごとを判別されます。自分のうちに聖なるものがないと悩み義に飢え渇く人々に、神の御目は注がれます。

 

 神のひとり子イエス・キリストがイスラエルに来られたとき、どうでしたでしょうか。

 イエスは、ユダヤ人たちから罪人として蔑まれていた取税人や遊女のところへ行かれました。彼らは、律法を守ることができず、神の契約を持たない異邦人のようでした。

 イエスは、彼らの心の苦しみを御覧になられました。

 

 律法に熱心なユダヤ人たちは、自分自身で自分を義とし、救い主を必要としません。自分たちは正しい者です。神に受け入れられる、ユダヤ人の模範です。神の民にふさわしい者だと自負していたのでしょう。

 

 しかし、父なる神の御心に従って神のことばに聞き従われたイエスは、人間が考える義人(神の前に正しい人、すなわち、神の律法を守ることに熱心な人)のところではなく、ユダヤ人たちが蔑む罪人(取税人や遊女)たちのところに行き、彼らの罪が赦されたことを宣言されました。

 

 神の子羊の罪の贖いの血が流される十字架のわざが実行される以前に、神の御子イエスは、罪にうめく取税人と遊女の罪とを、行って赦されたのです。

 「もう、二度と罪を犯してはならない。」と言われました。

 

 神は、自分の罪を知り、自分の罪を嘆く者の罪を赦されます。彼らは、自分の罪を認め、心の中で罪を言い表わしていたのです。

 

 イエスは宮で祈るパリサイ人と、宮から遠く離れて祈る取税人とのたとえ話をされました。

 パリサイ人は、自分がゆする者や不正な者や姦淫する者ではないことを感謝し、また、取税人のようではないことを感謝して、自分の行なった善行を報告し、神の前に祈りました。

 

 自分を義人だと自任し、他の人々を見下しているパリサイ人は、神に、義と認められなかったということを、イエスは言われました。

 

 遠く離れて立ち、自分の罪が後ろめたくて、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて「神様。こんな罪人の私をあわれんでください。」と祈った取税人が、神に義と認められたことを、イエスは言われました。

 

 神は、肉なる人の弱さを御存じです。それゆえ、人間のように、犯した罪そのものに焦点を合わせて罪を訴え裁いたり、罪に目を留めておられるのではないようです。

 罪人の心の声に耳を傾けられます。

 

 自分を罪ある者と認め、神に憐れみを求める者の方が、神の前で純真な者と言えるようです。

 たとい、正しい行ないを心掛けていても、そのことゆえに、他の人を蔑み、優劣をつける者は、自分の義によって生きているのです。

 

 たとい、罪に汚れた者であっても、そのことゆえに、自分を低くする者は、神の近くにおり、彼が神に思いを向け、神に憐れみを求めるならば、神は彼を義とされるようです。

 

 良きサマリヤ人のたとえで、イエスは、ユダヤ人であるとか異邦人であるとかではなく、また、神に仕えるレビ人であるとか神に仕える働きをしていない人であるとかは、聖なる神の問題とされるところではないことを明らかにしておられます。

 

 異邦人であっても、隣人に善を行なう者は神の隣人です。憐れみを持つ人は、神に受け入れられるのです。祭司であってもレビ人であっても、隣人の困っていることに無関心な人は、神もその人の隣人ではありません。

 

 神道の人々が聖なる神の前に立つために、身魂磨きをするならば、神は彼らの心を御覧になって、憐れみをかけられることでしょう。

 

 クリスチャンだから救われ、キリスト教を信じていないから救われない、と言う単純なものではありません。

 

 聖である神の前に立つ備えをする者の心のうちに、神は、神を恐れる正しい心を御覧になられるでしょう。

 

 神を知っているし、知られていると思っていても、聖なる神にへりくだり、神の前に立つ者としての備えをしない者は、イエスがパリサイ人に言われたようなことになるかも知れません。

 

 身も心も聖なる神に向けて、神に差し出すものとして生きるならば、聖なる神は、彼の信仰を受け入れてくださることでしょう。

 神が純粋な心に、真理の御霊を送られる時、真理の御霊によって、神の子羊イエスの罪の贖いの恵みも「アバ、父。」と呼ぶ天の父なる神のことも明らかにされるのでしょう。