「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」(箴言16:18)
他のものからほめそやされる立場の者は、幸いな者でしょうか。
天使長ルシファーは、光り輝く麗しい大天使でした。だれもが認める麗しさです。しかし、彼には神のような主権はありませんでした。神格者ではないからです。
神にはひとり子がありました。神のひとり子は、神格者であられ、神の主権を相続する者です。
天使長には、多くの天使たちがつき従います。しかし、主権を持つ支配者になることはありません。
エジプトのファラオは、神の知恵を持つへブル人奴隷で囚人のヨセフを見て、家臣たちに言いました。
「神の霊の宿っているこのような人を、ほかに見つけることができようか。」
「そして、ファラオはヨセフに言った。
『神がこれらすべてのこと(これからエジプトに起こる豊作の七年間とその後の七年の飢饉)をあなた(ヨセフ)に知らされたのであれば、あなたのように、さとくて知恵のある者はほかにいない。
あなたは私の家(エジプトの国)を治めてくれ。私の民はみな、あなたの命令に従おう。私があなたにまさっているのは王位だけだ。』
ファラオはなおヨセフに言った。
『さあ、私(エジプトの王)はあなた(へブル人のヨセフ)にエジプト全土を支配させよう。』」(創世記41:38-41)
高慢なルシファーが思うのは、自分よりも神のひとり子のまさっているのは、神格だけです。
神はルシファーのすぐれた力を認めて、ひとり子の権威を天使長ルシファーにゆだねるべきではないでしょうか。どうして、神格があるというだけで、また、神のひとり子だと言って特別扱いするのでしょうか。天使長は多くの天使を束ねて統率する力ある者なのです。天使たちはみな神の子なのではないでしょうか。
天使長の高慢は、神のひとり子よりも自分の方がすぐれていると高ぶったことです。
神のひとり子を低く見て、自分の方がまさっていると思ったことです。自分の方がまさっていると思う天使長が、自分より劣っていると思う者に仕えることに憤りを持ち、神には怒りを覚え、神のひとり子には妬みを生じさせました。
天使長の高慢は、自分を神のひとり子よりも優れていると思ったことでした。高慢が熟すと、神のひとり子への妬みが生じました。天使長は、自分の思い通りにならないのを憤り、怒りにあふれました。天使長の心には、妬みの炎が燃えました。
「憤りはむごく、怒りは激しい。
しかし妬みの前には、だれが立ちえよう。」(口語訳箴言27:4)
憤りは残忍です。神のひとり子の存在を憎み、ひとり子の権威を奪い取りたいと思います。もはや、止まりません。怒りはあふれ出るのです。
憤りも怒りも、その人自身を変えてしまいます。恨みはその人自身を焼き焦がします。
妬みの前には、誰も立つことができません。妬む相手を害さずにはいられないのです。
天使長の高ぶりは自分自身の居場所をなくし、心の高慢は天からの追放を招きました。大天使ルシファーは、天使長の位を失い、光を失い、輝きのない堕天使となって、闇に落ちました。
神のひとり子を妬む天使長は、その妬みによって、天から追放されました。憤りから怒りへ、妬みへと発展すると、妬みの感情に支配されてしまいます。
迫害も、殺人も、自分の正義と思うのです。天使長は、自分自身が「わたし」(自分の主人)となり、神の聖を汚しました。
神は、モーセに、御自身の名を「わたしは、『わたしはある。』という者である。」と仰せられました。(出エジプト3:14)
「わたしはある。」というのが、神の名だと仰せられたのです。
「わたし」と仰せられる神の中にすべてのものはあるのです。すべての人々は自分自身を「私」と名乗りますが、本来は、個々人ではなく、神の中にある被造物の一部です。
人が自分を「私」と名乗っても、自分自身で存在しているわけではありません。「わたしはある。」と名乗られるいのちの根源の神(創造主)の中で存在しています。
人は自分のいのちの源を悟りません。「わたしはある。」と仰せられる神の御手の中にあるのです。人は、自分自身を「私」と言いながら、自分のことを何も知らないのです。生を受けるときも、死ぬときも、神の御意志の中にあることを知りません。
エデンの園から追放されたアダムとエバのふたりの子、カインとアベルの場合、弟アベルの正しいのを妬んで、兄カインはアベルを殺しました。
だれも、妬みの前に立ち続けることはできません。妬みは、相手を破壊し、自分自身を破滅に導きます。
「(キリストのしもべである)私たちの戦いの武器(義の武器、すなわち真理のことばと神の力)は、肉のものではなく、神のためには要塞をも破壊するほどの(霊的な)力あるものである。
私たちはさまざまな議論を破り、神の知恵に逆らって立てられたあらゆる障害物を打ち壊し(高ぶりを打ち砕き)、すべての思い(はかりごと)をとりこにしてキリストに服従させ、そして、あなたがたが完全に服従した時(あなたがたの従順が完全になる時)、すべて不従順な者を処罰しようと、用意しているのである。(あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。)」(口語訳コリント第二10:4-6)
アブラハムの子孫を選ばれたのは、神御自身です。「わたしはある。」と仰せられる創造主が、アブラハムの血肉の子孫イスラエル(神と契約を結ぶユダヤ民族)と、アブラハムの信仰の子孫(神の御子イエス・キリストの御霊によって新しく創造されるとこしえのイスラエル)とを、神の民として選び、天の御国にはいらせられるのです。
アブラハムの信仰を受け継ぐ信仰の子孫(神の御子イエス・キリストを信じる人々)が、もし、アブラハムの血肉の子孫(ユダヤ人)に高ぶり、自分たちこそが神に選ばれた神の民であると言ってユダヤ人を訴え迫害するならば、それは、神が「アブラハムの子孫」と呼ばれる民を妬む者であって、本当の神の民ではありません。
妬みの前に、だれも立つことができません。彼らは、イスラエルの敵であって、イスラエルの王イエス・キリストの国民ではないのです。
「彼ら(アブラハムの血肉の子孫イスラエル)は、(聖書の)福音によれば、あなたがたのゆえに(異邦人の救いのゆえに)、(今は)神に敵対している者(神が遣わされたキリストを信じないで、天の御国の外にいる者)ですが、(永遠に変わらぬ神の)選びによれば、先祖たちの(契約)ゆえに、(神に)愛されている者なのです。
神の賜物(ユダヤ人は神と契約を結ぶ民族であって、イスラエルを祝福する者を神が祝福し、イスラエルを呪う者を神が呪われる)と召命(世界に御救いをもたらす神の民である)とは変わることがありません。(そのことを信じない者は、神は契約を守らない不真実な方であると偽りの証言をする不義の者であり、神に高ぶる者です。)
「主はシオンの山、エルサレムで、御自分のすべてのわざを成し遂げられるとき、アッシリアの王の高慢の実、その誇らしげな高ぶりを罰する。」(イザヤ10:12)
神は終わりの日まで、御自分の民イスラエルを妬む者たちが好き勝手にすることを許されます。
しかし、その最後には、神が立ち上がられます。
「人の高ぶりはその人を低くし、心にへりくだる者は誉れを得る。」(口語訳箴言29:23)
真理の御霊に教えられず、自分の思いに従い高ぶる者は、神に卑しめられて天の御国の門にはいることができず、神にへりくだり神のみことばのうちに留まる者(自分の思いに従わず、「わたしはある」と仰せられる神のうちに生きる人々)は、義の冠を受けて、神の子どもとせられ、天の御国に招き入れられるのです。