「大祭司はみな、人々の中から選ばれ、神に仕える事柄について人々に代わる者(代理人)として、任命を受けたのです。それは、罪のために、献げ物と生贄とをささげるためです。
だれでも、この名誉は自分で得るのではなく、アロンのように神に召されて受けるのです。(神の召しは、人の立候補によるものではなく、神御自身の意志によって名指しで、神から受けるのです。)
同様に、キリストも大祭司となる栄誉を自分で得られたのではなく、彼(イエス)に、
『あなた(イエス)は、わたしの子。
きょう、わたし(神)があなた(イエス)を生んだ。』
と言われた方(天の神)が、それ(キリストの栄誉)をお与えになったのです。」(へブル5:1,4,5)
イエス・キリストは処女マリアから産まれた「人の子」ですが、生まれる前から神に選ばれて「救世主」として任命され、キリストの油を注がれてイスラエルに遣わされた「神のひとり子」でした。
天地万物が造られる以前から、永遠の昔から天の神とともにおられた、神のひとり子です。
イエスは、ユダヤ人たちに言われました。
「あなたがたの父(ユダヤ民族の父祖)アブラハムは、わたしの日(神の御子キリストの訪れの日)を見ることを思って大いに喜びました。彼(アブラハム)はそれを見て、喜んだのです。」(ヨハネ8:56)
神は、契約を結んだアブラハムに、アブラハムの子イサクの子孫に「キリスト」が生まれることを約束しておられました。神の御子イエス・キリストが生まれるのは、アブラハムから約二千年後のことです。
イエスは、アブラハムはそれを信じ、また、アブラハム自身が「主」と呼ぶ神のひとり子が人の子としてアブラハムの子孫に生まれるのを見た、と言われたのです。
ヨハネの黙示録を書いた使徒ヨハネが、イエス・キリストの黙示を、御使いによって啓示を受けて、その啓示によって、約二千年後の今の時代(終わりの時代)のことを見たのと同じようなことを、アブラハムも体験したのかも知れませんね。
ヨハネは、映像で、はっきりと見ています。それで、その見たままを、「ヨハネの黙示録」の書簡に書いているのです。
イエスのことばを聞いたユダヤ人たちはイエスに向かって言いました。
「あなた(イエス)はまだ五十歳になっていないのに(イエスは十字架につけられた時に三十三歳だったと言われています。)アブラハムを見たのですか。(二千年前の先祖のアブラハムを見たとは、こいつ〈ある一部のユダヤ人たちからキリストと言われているイエス〉は頭が変なのではないか。)」(ヨハネ8:57)
イエスは彼ら(イエスを信じないユダヤ人たち)に言われました。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。(このことは真理です。)アブラハムが生まれる前から、わたし(ナザレのイエスとして遣わされた神のひとり子)はいるのです。」(ヨハネ8:58)
神の祭司の民イスラエルを世に生んだ父祖であり最初の信仰の父アブラハムは、二千年も前に死んでいるではありませんか。なんて、大風呂敷な。やっぱり、イエスはユダヤ人たちを騙すペテン師、大嘘つき野郎だ。
しかも、アブラハムが生まれる前からいるとは、狂った野郎だ。
ユダヤ人たちは、石を取ってイエスに投げつけようとしましたが、イエスは身を隠して、宮から出て行かれました。
イエスは、世の罪を取り除く神の子羊として、木にかけられなければなりません。木につけられた者は、呪われた者です。
イエスは、神に呪われた者として死ななければなりません。神が、神のひとり子に肉体を造られた(人の子として遣わされた)のは生贄の子羊として、罪の贖いの血を流すためでした。
肉体を持つ「人の子」として生まれる以前のイエスは、実は、永遠の昔から生きておられる、「神のひとり子」でした。
彼(イエス)は、光り輝く天使長ルシファーが嫉妬に燃えた唯一の存在、神のひとり子でした。彼(神のひとり子)を激しく妬んで、大天使ルシファーは、天から追放されたのです。
神のひとり子は神格者です。御使いよりも高いお方です。どんなに輝き、すぐれた大天使であっても、彼よりも高くなることはできません。
しかし、神のひとり子は、悪魔の縄目を打ち砕いて、世を罪の呪いから解放して、人を死と滅びから救い出し、エデンの園から追放された罪人に永遠のいのちを得させるために、父なる神に従って「人の子」となり生贄の子羊となるために、みずから神のひとり子の栄光の御姿を捨てられました。
神のひとり子の御姿をお捨てになられたということは、もう二度と、神のひとり子の御姿には戻れないということです。
御使いたちに仕えられていた神のひとり子は、肉体を持ち、霊のからだの御使いよりも劣る肉のからだの「人の子」となられたのです。
しかし、神は御使いたちに命じられました。
「神の御使いたちはみな、彼(人の子となられた神のひとり子)を拝め。」(へブル1:6)
神のひとり子の栄光の御姿の彼にさえ、崇めることのできなかった天使長ルシファーと彼に仕える天使たちがいます。彼らは、天から追放された堕天使です。
地上では、その堕天使たち(悪魔と悪霊ども)が働いています。また、悪霊にならなかった堕天使もいるでしょう。
神のひとり子の栄光を捨てた神の子羊イエスに、どんな輝きがあるのでしょうか。神のひとり子に仕えていた御使いたちに、神は、「彼(人の子イエス)を拝め。」と命じられました。
土から造られた人(ユダヤ人たち)からも尊ばれないイエスを、御使いたちは拝み、仕えました。神のひとり子の栄光の輝きに代わって、御使いよりも劣る卑しい人となられた御子は、御使いよりも劣る卑しい人(ユダヤ人)たちに蔑まれ、のけ者にされ、尊ばれませんでした。
神からキリストの油を注がれたナザレのイエスは、神に聞き従い、神の栄光を現わされました。神のことばを語り、神のわざを行なわれました。しかし、イエスは卑しいナザレ人です。
イエスは、十字架の死まで、神に聞き従い通されました。
十字架にかかり、呪われた者となって死なれました。しかし、彼への懲らしめが私たちに平安(神との和解)をもたらし、彼の打ち傷によって私たちは癒されました。(罪が赦されました。)神の子羊イエスの血が罪人を贖い、永遠のいのちの御霊を飲む者とされたのです。
「彼(ナザレのイエス)を砕いて、痛めることは主(裁き主)の御心であった。
もし彼(キリストの油を注がれたナザレのイエス)が、自分のいのちを(人類の)罪過のために生贄とするなら、彼(神のひとり子の栄光の御姿を捨てた御子)は末長く、子孫(キリストの御霊によって新しく生まれる神の子どもたち)を見ることができ、主(創造主であられる全能の神)の御心は彼(ナザレのイエス)によって成し遂げられる。」(イザヤ53:10)
神は、御救いのわざを成し遂げた神の子羊イエスを、死から甦らせられました。復活のからだを与え、永遠に生きる神の子とされたのです。
神は、神のひとり子の栄光の御姿を捨てた御子に、新しい栄光を与えられました。復活したイエス・キリストを天に上げて、主権と光栄と国をお与えになり、神の御座の右に着座させられました。
「あなたは、わたしの子。
きょう、わたしがあなたを生んだ。」
神は、神のひとり子の栄光の御姿を捨てた御子を、死から復活した新しい創造の「新しい人」として生んでくださいました。
永遠に生きる新しい人として、神が生み、神の子とされました。
かつての神のひとり子ではありません。同じひとり子ですが、新しく創造される神の子どもたちの長子であられ、主権と光栄と国を持ち、天の御国を相続する御子、主の主、王の王であられる神の栄光に輝く神の子羊となられたのです。
神は、神の子羊にこうも言われます。
「あなた(神の子羊イエス)は、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。」(へブル5:6)
神のひとり子は、悪魔の力を打ち砕く神の子羊であり、人の罪を贖い死と裁きから救い出し永遠のいのちを得させるキリスト(救世主)であり、天の御国を相続する神の子どもたちの長子であり、神に仕えるメルキゼデクに等しい大祭司となられたのです。
アブラハムに現われたメルキゼデクが、受肉前の神のひとり子の姿であったとするならば、神は、人の子となられた御子イエスに、「メルキゼデクに等しい大祭司」と仰せられることで、人の子となられた御子を、神のひとり子の栄光の御姿と等しい者であると宣言されたのです。
悪魔が憎んだ神のひとり子は、神のひとり子の栄光の御姿を捨てて、神の子羊となられたことで、多くのものを得られました。
悪魔は、神のひとり子の地位を妬んで、闇に落ちました。悪魔が妬むほどの地位を神のひとり子は一度捨てられました。
しかし、神は、御自分に従って、神のひとり子の栄光を捨てた御子に、神の民をさばく裁き主としての栄誉と、神の子羊キリストの光栄と、メルキゼデクに等しい大祭司の位と、主権と光栄と国と、信仰の勝利者たちからなる多くの神の子どもたちとともに天の御国を相続するようにされるのです。