ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

人の見るところ 神の見るところ

 

 今まで隠されてきた事が、開示され始めています。

 やはり、もう時間がないようです。

 

 皇族の宮家に仕える八咫烏(やたがらす)が顔出ししました。宮家は多くあって、その一つ一つの宮家にそれぞれの八咫烏がいるようです。ユダヤ民族十二部族のそれぞれの部族に、レビ人がいるようにです。

 

 天皇家に仕える八咫烏、伊勢の語り部を継承している人も顔出ししました。二千六百年以上、途絶えずに、存在していたのに、国民に隠されていた存在です。

 

 上皇が、秋篠宮家に皇位が移らないにように、すべてを整えておられるようです。そして、皇嗣は愛子様、との動きが着実に進んでいるようです。

 秋篠宮が廃嫡されることはすでに皇室会議で決まっていると言われます。

 

 理由は、秋篠宮が上皇の血を引く子どもではないからだそうです。すなわち、秋篠宮は美智子様から生まれ、天皇家で育ちましたが、父親は上皇ではないということです。

 天皇家の血を引かない秋篠宮には、資格がないのです。

 

 昭和天皇は、「浩宮(現今上天皇)の後には、浩宮の子が天皇にならなければならない。礼宮(現秋篠宮)に皇位を移してはならない。」と仰せられていました。

 

 皇位継承の対象は、四親等までだったのが、GHQによって、二親等にされてしまい、旧宮家が全部排除されました。(時間の経過とともに先細りにし、完全に将来天皇家を亡き者にしようと言うGHQの意図でしょう。男系男子が途絶えようとしている今がその時を迎えているのでしょう。)

 

 皇室典範は男系男子となっているので(歴代天皇には推古天皇、持統天皇など幾人かの女性天皇がいました。)、皇室典範を天皇家の長子と改正しなければならないのを、人数の多い自民党が賛成しないので、物事が今までスムーズに進んでいなかったのです。

 小泉元総理の時に動き始めていたのを、安倍元総理が滞らせていました。

 

 かつて、私は秋篠宮が皇族からずれている気がして何か違和感があったので、神に祈ると、「平民の魂。」と答えられました。

 平民の魂で、皇室にいたら大変だろうな、と同情しましたが、魂のみならず、存在そのものが一般人であるということが分かった時は、「やっぱり。平民と変わらないわけだ。」と納得しました。そして、日本国民のお荷物だと思うようになりました。

 

 しかし、このことは国民に隠されて来たことです。

 

 権威にへつらう生き方をする人は、皇室への批判を避けるでしょう。そして、そんなことはあり得ない、と言って秋篠宮や美智子様の味方をするのです。そして、正しいことを言う者を、攻撃するのです。彼らは、真理を愛さない人々です。

 

 天皇は、神の前に立つ祭司です。神が選ぶ人でなければなりません。神は、天皇家の一系(天皇の血筋の子孫)から立てられます。

 神を信じない人にはわかりませんが、神の御勤めをする人が神が選ぶ正しい者でないならば、神は日本国を打たれます。日本国に災いが起こるのです。

 

 神は、天皇に日本国の祭司としての務めをお与えになっておられます。

 かつて、イスラエルで、契約の箱に触れたレビ人ウザが神に打たれて息絶えました。契約の箱に触れることを神から許された祭司ではなかったからです。

 

 上皇が天皇であられたとき、八十歳になられる以前から、いつ皇太子(現今上天皇)に代わられるのだろうと思っていました。

 皇室典範特例法によって、やっと皇位継承ができました。

 

 天皇は、国民のために日々祈っておられると聞き、八十歳のおからだで続けられるだろうか。もし、天皇がおからだの不調を理由に祈祷されなくなるようなことがあれば、日本列島に暗雲が立ち込めるのではないのかと不安があったからです。

 

 また、もし皇太子が代行された場合、天皇のお立場でない方がされることを、神は可しとされるのでしょうか。

 私は心配で、「神様、なんとかしてください。」と祈っていました。

 私たち日本国民と日本列島には、天皇の祈りが必要なのです。

 

 神を思う時、神の御思いに合わせてみなければ、本当のところは見えて来ません。

 たとい、天皇家のことであっても、神の御思いを通してみることが必要です。

 

 神の事を知るためには、神の目を通して見ることがとても有益です。神の意識に心を合わせるならば、神の御心に敵対して立つことから守られます。

 

 自分の見たまま、自分で判断する習慣の人は、皇室の方なのに国際基督教大学を出られたから聖書の神に近い人だとか、ミッションスクールを出て聖書の知識を持つ人だからキリスト者たちの仲間のように思いがちですが、神がどう御覧になっておられるのかが、すべての物差しであることにへりくだりましょう。

 

 教会内での振る舞いやあり方が、その人の信仰ではないのです。その人の教会外の普段の生活の中で、どう見るか、どう判断するか、そのあり方がその人の癖です。その癖が、その人の信仰を形作るのです。

 

 人からどう見られるかではなく、神にどう見られるのかを、気にした方が良いです。

 普段から、自分は何を見ているのか、どう見ているのかを、意識したほうが良いです。なぜならば、習慣はなかなか変えられないものなのです。意識して変えても、心が変わっていないならば、無意識に習慣の行動をしているのです。

 

 これから、もっと、いろいろ、今まで隠されて来たことが明らかになるかも知れません。そのとき、自分の思考で捉えるのをやめて、神に祈り、神からの答えを待ちましょう。

 もし、自分が真理でないものを握っていたのならば、それに気づいて、神の前に言い表わして手放しましょう。そして、神からでないものを大事にしていたことを悔い改めましょう。

 

 人の見るところは、人々の思いで偽装されています。大切なものは覆い隠され、真理からずらされます。真理ではない方向に向かされているのです。そこには、惑わしが伴います。

 しかし、すべてのことを見通される神の見るところは、本心であり、心のいろいろな考えやはかりごと、偽りのない真理なのです。

 

 神のみもとに帰る人は、神の純粋なみことばを慕いましょう。人間の見解を混ぜ物とするこの世の生き方から向きを変え、神を意識しましょう。

 

 御霊に教えられるということがわからない人は、神に、御霊を与えてくださるように祈りましょう。そして、「神の御霊に聞く者としてください。」と祈りましょう。

 

 「御霊を体験させてください、私がはっきりと理解できるように、御霊で満たし、真理を教えてください。真理を愛する新しい心を、私にください。

 私自身の思いや考えをあなたの前に置きます。ただ、御霊が教えてくださるキリストの御思いで私を包み、キリストの御思いが私の思いとなるまで、わたしを造り変えてください。」

 

 「強くあれ。雄々しくあれ。彼ら(この世に属する人々)を恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主御自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」(申命記31:6)