ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

いのちをリセット

 

 新しいいのちは、古いいのちに死んで、新しく生まれます。

 最初のいのちは、女の胎から生まれました。肉体を持つ人間です。父親と母親の両方の遺伝子をいただいた肉体の人間です。肉体は、肉の性質を持ちます。愛と憎しみ、優しさと冷酷さ、優越感と劣等感、慈しみと破壊など、光と闇の二面性を持つ性質です。

 

 神は、光と闇の間を行き来する肉体の人間が永遠に滅びるものであることを痛まれました。人は、神に似せて造られた、神の喜びでした。

 神は、天から追放した神の子(堕天使)らをきよめていのちの木の実を食べるのを許し、再び、天に戻すために、彼らの救いの門として設けられたであろう「エデンの園」の管理者として、人を造られたのではないでしょうか。

 

 人は神のことば(神のひとり子)とひとつのものとして造られていました。しかし、神のひとり子に高ぶり、彼の神格を妬んで天から追放された堕天使長の悪魔が、人を騙して、人を神のことばから外しました。

 神のことばとひとつでなくなった人は、エデンの園の管理者の資格を失い、エデンの園から追放されました。

 

 天から追放された堕天使たちも、エデンの園から追放された人も、いのちの木から遠ざけられて、闇の中をさまよいます。

 

 いのちの木の実は、永遠のいのちを得させる実です。永遠のいのちを持つならば、全き光の天に帰ることができます。また、神のひとり子(神のことば)とひとつとなって、神の交わりのうちに帰ることができるのです。

 

 肉のいのちの性質は、光と闇の二面性があります。しかし、永遠のいのちの性質は、全き光だけです。暗いところがありません。罪がないからです。神とひとつなのです。聖なる神と隔てるものはないのです。

 

 神は、御自分のひとり子に肉体を造り、全き人の子として、神の祭司の国民イスラエルに遣わされました。罪人の罪の身代わりの生贄として、罪の完全な償いのために、また神の怒りをなだめる「神の子羊」として遣わされました。

 

 神がイスラエルにお与えになられた神の子羊イエスは、しみも傷もしわもない、すなわち全き聖である、完全な生贄です。それゆえ、ただ一度の生贄で、罪の赦しは完成しました。

 イスラエルの大祭司が罪の生贄をほふっても完全なものとされることがなく、毎年ささげなければならなかった生贄ですが、神御自身が用意された、天から遣わされた神の子羊は、神の怒りをなだめ、ただ一度で罪の贖いを全うされたのです。

 

 神は、神の子羊イエスの血を満足され、再び、生贄を要求されることはありません。神の子羊イエスの血は、罪人の罪を赦して義と定めるのにふさわしい、完全な贖いの血です。

 

 イスラエルだけの罪の贖いではありません。神の子羊イエスの血は、世の罪を取り除き、すべての被造物を贖う、永遠に効力のある、尊い贖いの血なのです。

 すべてのものをさばく権威をお持ちの、裁き主なる全能の神が用意された、御救いの道(救世主)です。

 

 神は、神に反逆し神に敵対する悪魔と悪霊どもを、永遠の火の池で滅ぼすことを定めておられます。神のことばから外れたもの、不義なるものはすべて、全き光に入ることはできません。

 

 光と闇の二面性を持つ肉の人も同様です。彼らを全き光の天の御国にはいらせるためには、闇を取り除き、神のことばとひとつのものとしなければならないのです。

 

 神は、神のことば(神のひとり子)に肉体を造り、地上に遣わされました。神のひとり子は全き光です。暗いところがありません。神とひとつである神のことばなのです。

 

 キリスト(救世主)の油を注がれた神の子羊イエス・キリストは、ユダヤ人たちの間を歩まれ、天のことばを語られました。地に属する人のことばではなく、天に属する神のことばを教えられました。

 

 イエス・キリストのことばを聞いた者は、神御自身のことばを聞いたのです。イエス・キリストのことばを信じた者は、神のことばに繋がる者です。

 神のことばから外れて、人は罪人となりました。人の子の姿となられて来られた神のことば(イエス・キリスト)に繋がって、罪人は義人とされるのです。

 

 「神が義とされる」ということは、神が罪を認められないということです。たとい、悪魔が訴え、人々がそしっても、裁き主であられる神御自身が「罪を赦した。」と宣言されるのです。

 

 人の子として世に来られた神の御子イエスは、肉体をもって来られました。そして、罪の生贄として十字架にかかり、贖いの子羊の血を流されました。神は、神の子羊の血を「聖い。」と宣言されます。

 

 神は、神の子羊イエス・キリストの血を受ける者に、すでにイエス・キリストが身代わって流された聖なる子羊の血を御覧になって、「確かにあなたの罪は赦された。」と仰せられるのです。

 

 人の子イエスは、十字架で、肉体のいのちに死なれました。肉のいのちは死んだのです。光と闇の二面性を持つ肉体のいのちは、死にました。

 肉に死んだイエスは、全き光の聖霊によって、すなわち御霊のいのちによって、死から復活されました。

 

 女から生まれたイエスは、肉に死に、御霊によって新しく霊の子として生まれました。罪のない新しいいのちです。永遠に生きる永遠のいのちです。そして、永遠のからだ(霊のからだ)を着ます。

 

 闇の性質はイエスの肉の死によって死にました。生まれたのは、罪のない全き光の性質です。神の子どもの性質です。

 神は、イエスの肉体を通して、肉に死ぬことと、御霊によって新しく生まれることとを現わされ、イエス・キリストを新しい創造の「新しい人の初穂」とされました。

 

 神の子どもに創造される新しい人は、イエスの御足跡を歩みます。イエスの肉にあって私たちの肉は死に、イエスの復活のいのちによって私たちは御霊を受け、御霊によって新しく生まれます。すなわち、永遠のいのちに新生するのです。

 

 イエスが肉体をもってイスラエルの中を歩まれた時は、イエスは神のうちにあって御自分のいのちを生きておられました。イエスのことばを聞く弟子たちは、イエスのことばにあって神を知りますが、神とひとつになることはできませんでした。

 

 イエスと弟子たちは別々のからだを持ち、それぞれが自己を生きていたのです。

 しかし、イエスが十字架で肉に死んで復活して天に上り、神の御座の右に着座されると、イエスは聖霊のバプテスマの権威を持つキリストとなられました。

 

 イエスの肉体の中にあったキリストの御霊が、弟子たちひとりひとりに分け与えられました。弟子たちの中にキリストの御思いを持つ御霊が住まわれるのです。

 この御霊によって、肉体の中にあっても、キリストとひとつとなることができるようになりました。御霊によって生まれた神の子どもたちはキリストの御思いを持ち、ひとつの御霊によって「ひとりの新しい人」となることができるのです。

 

 罪人は、神の子羊イエス・キリストの血によって贖われ、キリストの生かす御霊によって新しいいのち(永遠のいのち)を得るのです。

 

 新しいいのちが現われたので、肉体のいのちは古いものとなりました。

 

 「だれでも(ユダヤ人でも異邦人でも、キリスト者でもそうでない者でも)キリスト(裁き主が定められた救世主イエス・キリスト)のうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

 これらのことはすべて、神から出ているのです。」(コリント第二5:17,18)

 

 前世を気にする人は、古いいのちで生きている人です。地に属する古いいのちの中に留まっています。

 

 イエスは、肉に死んで、新しいいのち(御霊のいのち)で新しく生まれました。

 新しいいのちをいただく人は、肉のいのちに死ななければなりません。すなわち、自分というこだわりを捨てる必要があります。そして、純粋で透明なイエスのくださる新しいいのちを受けるのです。

 

 新しいいのちはこの世のものではありません。天に属するものです。イエス・キリストの中にはいるいのちです。

 真理の御霊によって、神に義とされた自分を知り、神の赦しと愛を味わい、生きる喜びと平安、そして、生かしてくださる神に感謝し続ける永遠のいのちです。