神は闇に光を造り、昼と夜をつくられました。
神は水を上と下に分け、その間に大空を造られました。
神は、下の水を一所に集めて水の集まった海と乾いた地を造り出し、地上(陸)におのおのの種類にしたがって植物を造られました。
神は、昼を司る太陽と夜を司る月と星を造られて、地上を照らされました。
神は、水の中の生き物をその種類にしたがって造られました。また、その種類にしたがって翼のあるすべての鳥を造られました。そして、水の中の生き物や翼のある鳥たちが増えるように祝福されました。
神は、地上にその種類にしたがって野の獣、家畜、地をはうもののすべてを造られました。
神は、すべてのものを造られた後、それらのものを支配する人を造られました。
支配者として造られた人は、主権を持たれる神御自身に似せたものとして造られました。人は、存在する意味と目的をもって造られました。
人は、地球上の最後の被造物です。人は、すべての被造物の最後に造られました。初めに人があったわけではありません。水や大空や海や陸や植物や水の中に生き物や翼のある鳥や地上の獣や生き物の最後に創造されました。一番歴史が浅いのです。
これも神の知恵です。人は被造物の支配者ですが、被造物よりも偉いわけではないのです。一番最後に造られたのです。
「神である主は、土地の塵で人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」(創世記2:7)
「神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼(人)がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。
こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、(その中には)人にはふさわしい助け手が、見あたらなかった。
そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。
すると、人は言った。
『これこそ、今や(ついに)、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。』
それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」(創世記2:19-24)
この最初の男がアダムであり、最初の女がエバです。
最初の人は、女から生まれたのではありません。神御自身が造られたのです。そして、ひとりの人のからだを二つに分けて、男と女とを創造されました。
その後の人々(すなわち、エバが生んだ女の子孫)は、母である女から生まれたのであって、女から分かれて造られたものではありません。
女から生まれ出たものではありますが、子どもは母である女とは一体ではありません。一体とは、父と母のように一体となって新しいいのちを生む「夫と妻」とをさします。
アダムは肉の子です。神のことばとひとつのものとして造られた人が、蛇の言葉に従い、神のことばに背いたとき、現象を実体とする肉の人となりました。霊はふさがれ、神の霊の通り良き管ではなくなったのでした。
肉の夫アダムと肉の妻エバの一体から生まれ出る者はみな、肉の子どもです。肉の人から生まれた肉の子なのです。
肉は朽ち果てるものです。肉の中に永遠のいのちはありません。
肉のアダムの子孫の中に、神は、御自身のひとり子を遣わされました。すなわち、神は、御自分の御子に肉体を造り、女の胎内に宿されたのです。しかも、夫のある女ではなく、許嫁の夫を持つ処女に宿らされました。
神は、永遠の昔から存在しておられる御子を、肉体のある人の子とされました。それは、肉なる者の罪を取り除く、人の罪のための贖いの子羊として燔祭を行なうためでした。
いのち(神)に犯した罪は血によって償わなければなりません。血はいのちであり、いのちは血にあります。いのちはいのちによって償うのです。
罪人は、罪の報酬の死を受け取っています。それゆえ、人はみな、死ななければなりません。しかし、神は、死によって滅びゆく肉のアダムを救おうとされたのです。
肉のアダムを救うために、肉の罪を処罰し、新しい朽ちないからだと永遠のいのちを得させようと、神は御計画されました。
神は、肉のアダムを滅ぼし、まったく新しいものを創造することもできるお方です。しかし、神はそうなさいませんでした。肉の人の罪を贖い、その贖われた人に新しい創造を施す御計画です。
陶器師であられる主は、最初に造った土の塊(人)を捨てて、新しい土の塊から新しい人を造られるのではありません。
最初に造った土の塊を壊して、その古い土から全く性質の異なる新しい創造(霊のアダムの創造)をされたのです。
神のひとり子は人として生まれました。彼は、神のひとり子の栄光を捨てて、朽ちて焼かれる肉の人として、ユダヤ人の間に生まれました。
彼は、十字架にかかられたナザレのイエスです。世の罪を取り除く神の子羊として来られました。
肉のアダムの罪をご自分のからだにおいて処罰し、死んで墓に入られました。イエスは、ご自分の罪のために死なれたのではありません。イエスは、ご自分を遣わされた神(まことの父)に忠実でした。ご自分の意志で生きるのではなく、神(イエスを遣わされた御父)の御心のうちを神(御父)に聞き従って生きられました。
ナザレのイエスは、神のことばから外れたことは一度もありません。罪を犯さない完全な人でした。イエスご自身が神のことばであられ、御父のことばとひとつでした。罪のないイエスご自身は死に値する罪人ではなく、永遠に生きる生き方をしておられました。しかし、肉体を持つ人の子イエスは、肉のからだで永遠に生きることはできません。
肉のアダムの罪を負った人々を救うために来られた神の子羊イエス・キリストの使命は、みずからが肉のアダムの罪を負って身代わりとなって死ぬことです。罪のないイエスは、罪のための生贄の子羊でした。
神のひとり子イエスを生贄の子羊と定められた神は、神の子羊イエスのいのちの犠牲(贖いの死)によって、罪の呪いを負った人たち(肉の人)の代わりに、贖いの子羊イエスに罰(死の呪い)を受けさせて、世の罪を取り除き、肉のアダムの人々(肉の人)を罪の呪いから解放されるのです。
肉の人として来られた神の子羊イエスは、十字架で罪の贖いの血を流されました。この子羊の贖いの血によって、神のことばに背きエデンの園から追放された肉のアダムの罪は赦され、神と和解して人々は平安を得ました。
神は、イエスを墓から甦らせました。罪が赦されたので、死ななくて良いのです。死は罪の報酬です。罪が取り除かれた人は、もはや罪の報酬の死を恐れなくて良いのです。
死から甦られたイエスは、御霊によって生まれた新しい創造の人の初穂です。肉に死んで、御霊によって新しく生まれました。肉は死んでいるので、もはや肉を着ることはありません。
イエスの新しいからだは、復活のからだです。時間空間に拘束されない自由なからだです。物質を伴わない永遠のからだです。それは、永遠のいのちを入れるとこしえのからだです。
人の子イエスは肉に死に、死から甦って、復活のからだ(とこしえの霊のからだ)で、肉の死から生まれました。神のひとり子の栄光のからだではありません。御霊によって新しく生まれた神の子どものからだです。
人の子イエスは肉に死んで、御霊によって生まれた最初の人です。神の子羊イエスの死と復活によって、御霊の新しい創造が始まりました。
人の子イエスは、御霊を飲んで、永遠のいのちと朽ちない栄光のからだを持つ新しい創造の「霊のアダム」となられました。肉の人から新しく創造された御霊の子は、神の子羊イエス・キリストの御名によって創造される神の子どもたちです。
神の子羊イエスは、栄光の神のひとり子から、人の子ナザレのイエスへ、そして、世の罪を取り除く神の子羊イエス(救世主キリスト)へと変貌していかれ、ついに、御霊によって生まれる新しい創造の神の子どもたちの長子となられました。
神の子羊の栄光は、神のひとり子の栄光にまさり、神は、新しく生まれた神の子どもたちの長子イエス・キリストに、主権と光栄と国をお与えになられました。
そして、神の子羊イエス・キリストは、神の御座の右に着座されました。
天では『御座にすわる方(父なる神)と、子羊(御子)とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。』と賛美され、ひれ伏して拝まれています。
肉のアダムには、肉の妻エバがいました。肉の妻エバは蛇の言葉を聞き入れて罪に堕ち、また夫アダムを罪に陥れました。
肉のアダムは、肉の妻エバと結ばれて一体となり、肉の子どもたちを生みました。
霊のアダムには、霊の花嫁が必要です。霊のアダムは、御霊を飲み御霊によって生まれた人々とひとつとなられます。
霊のアダムの頭は、御霊によって生まれた最初の人、神の子羊イエス・キリストであり、同じ御霊を飲んで御霊によって生まれた人々が霊のアダムのからだ(キリストのからだ)です。
霊のアダム(キリスト・イエスをかしらとする新しい人)は、御霊によって生まれ御霊によって新しく創造された神の子どもたちであって、永遠のいのちを得て永遠に生きる、とこしえの天の御国の国民です。