ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

信仰によって勝利する

 

 ヨハネの黙示録には、永遠のいのちを得る七つの御霊の教会のことが書かれています。

 七つの御霊の教会の、それぞれの教会へのメッセージが書かれています。そして、それぞれのメッセージの最後を読むと、勝利を得る者への報酬が書かれています。

 

 勝利を得なければ得られない、それぞれの教会の祝福の約束です。つまり、信仰に勝利しなければ、それぞれの教会に加わることができないようです。

 七つの御霊の教会は、信仰に勝利する聖徒たちの教会であり、新しい天と新しい地に住む、とこしえの天の御国の神の子どもたちです。

 

 律法を守って、永遠のいのちを受けるのではありません。ユダヤ教の教えの延長線上に、いのちの道があるのではないのです。

 キリスト教会に属して、永遠のいのちを受けるのではありません。キリスト教の教えの延長線上に、いのちの道があるのではないのです。

 

 ユダヤ教の教えは、天地万物を造られた唯一の神(創造主なる全能の神)を知らせます。そして、神が遣わされるメシアが世に来られることを知らせます。

 世の滅びと、滅びの世からの救いの道があることを知らせます。

 

 キリスト教の教えは、神が遣わされた救世主(キリスト)を知らせます。そして、神の御子イエス・キリストによる御救いと、永遠のいのちが得られる希望と恵みを知らせます。

 罪の赦しと、神が設けられた「いのちの道」(キリストの十字架の血による贖いと、天の御国に帰るイエス・キリストの御霊の道)を知らせます。

 

 ユダヤ教の聖書(旧約聖書)は、神の国を知らせ、キリスト教の聖書(新約聖書)は、神の御救いを知らせます。

 新約聖書は、旧約聖書に書かれた約束の実現が書かれています。神の国に入るための門へ導かれます。神の御子イエス・キリストによって、神の国(天の御国)の門が開かれたからです。

 

 神は、天の御国に入るようにと、神のひとり子キリスト・イエスによって、人々を招かれます。

 神の国の門の中に入ると、自由があり、平安があり、エデンの園のような恵み(神との交わり)を味わいます。そこは、神の国の大庭のようなところです。

 

 永遠のいのちが得られると聞き知った人々が、神の国の門の中に入って来ます。そして、その神の国の門の中の豊かさに目を見張り、憩います。

 

 ふと、自分の家族のことを思い出して、家族のもとへと帰って行く人々もいます。彼らにとって、神の国の門の中は日常の疲れの骨休めの場所なのです。

 

 しばらく留まって、世の風を懐かしみ、十分楽しんだ後で、現実生活へと帰る人々もいます。そこは彼らのリフレッシュの場所であり、彼らは、現実生活の中で力を発揮します。

 

 希望に満ちた神の国の門の中の世界をほかの人々にも知らせようとして、門を出たり入ったりする人々もいます。

 

 神の御子イエス・キリストを信じる信仰が、神の国の門を見いだし、イエス・キリストの御名がその門にはいるパスポートです。

 

 パルポートを持つ人は多くいますが、すべての人が門の中に入るわけではありません。数回入るだけの人もいます。いつも入っているのに、突然いなくなる人もいます。

 

 パスポートを持つと、信仰を働かせなくなる人が多くいます。神の国の門に入って大庭を見ただけで、神の国の住民になったかのように、錯覚する人々もいます。

 

 神の国があること(存在)を知り、神の国に入らせてくださる神の御子イエス・キリストの御名を知り、神の国の門の中まで入ることができました。

 信仰の道に入ったのです。永遠のいのちを得させてくださるという、全能の主のみもとに辿り着くいのちの道は、神の国の門の中にあります。

 そのいのちの道は狭く、信仰によらなければ、見出すことができません。

 

 多くの人は、神の国の門を通り抜けた場所が、いのちの道だと思っています。神の国の門の中に入ったならば、すでに、いのちの道を歩んでいると勘違いするのです。

 

 実は、神の国の門は一つだけではありません。

 たとえば、日本人は大きな神社の敷地に入るのに、正面にある正門だけではなくて、幾つかの門があることに気づきます。神社の敷地の東西南北に鳥居があり、そこから神社の敷地に入ることができます。鳥居は一つだけではないのです。

 

 神の国の大庭にも幾つかの門がありそうです。キリスト教徒は、キリスト教の門しかないと思っていますが、仏教徒が目指す門、神道が目指す門、様々な教えを通って、創造主の大庭に入るのではないかと思われます。

 

 そして、イエスがお与えになったことば(新約聖書)によって入る正門の近くに、イエスが与えると約束された「もうひとりの助け主」(真理の御霊)の助けによって入る、いのちの道の狭き門があるようです。

 

 大庭の安らぎに満ちた豊かさに心が奪われ、自分の五感の喜びに浸っていると、神への感謝に満たされて、いのちの道の存在を忘れてしまいます。

 いのちの道に行くために神の助けを求めることが希薄になると、永遠のいのちの約束は自分の死後に実現するように思い、生きているうちに、それを求めようという気が弱くなってしまいます。

 

 永遠のいのちを得させる権威がある神の子羊イエス・キリストは言っておられます。

 「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいっていく者が多くいるのです。

 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13,14)

 

 キリスト教会では、「イエスを信じなさい。そうすれば、救われます。神は、神の御子イエス・キリストを信じる者に、永遠のいのちを得させてくださいます。」と教えます。

 

 世界中で、キリスト教徒の割合が一番多いです。イエスは、「狭い門からはいりなさい。」と言われます。

 キリスト教徒の入る門は、実は、イエスの言われる狭い門ではなさそうです。神の国に入る門を通って、その中にある狭い門から入らなければ、いのちの道に至らないようなのです。

 

 神の国の門は大きな門で、だれでも自由に入ることができます。しかし、天の御国にはいる狭き門は、人々に隠されています。

 本当に神を恐れ、神にへりくだる者しか入れないように、隠されています。キリストがお与えになる「生かす御霊」によって新しいいのちを得、「真理の御霊」によって導かれなければ、見出すことのできない狭き門です。

 

 「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。

 だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」(マタイ7:7,8)

 

 永遠のいのちは、イエス・キリストを信じたならば得られるものと思っていたら、求めなければ得られず、捜さなければ見つけることができず、たたいて開いていただかなければ入ることのできない、狭い門の先にあるようです。

 

 信じる者の前に大きく開かれている門ではなく、神への強い求めによって見いだす門です。そこは閉ざされていて、ひとりひとりが叩いて開いていただかなければなりません。個人的体験です。

 

 イスラエルの父ヤコブの信仰が必要です。ヤコブは、神と契約を結んだアブラハムの祝福を相続するイサクの子です。

 イサクには、双子の息子がいました。神は、母リベカの胎内にいるときから、兄のエサウではなく、弟のヤコブにアブラハムの契約と祝福を相続させることを定めておられました。

 

 神が定めておられたから、スムーズにヤコブが相続者となったのでしょうか。いいえ、長子ではない弟のヤコブが相続権を得ることには、多くの苦難が伴いました。

 

 アブラハムの契約と祝福を受け継いでいる父イサクは、長子エサウに相続させることを望んでいました。というよりも、神の御計画が知らされていないイサクは、慣習にしたがって長子が相続するものだと信じていたのかも知れません。

 

 ヤコブは、自分の知恵を絞り、エサウから長子の権利を買い取りました。神に敬虔でなく愚かなエサウは、簡単に長子の権利を弟に売ってしまいました。

 また、年老いて目が見えなくなった父イサクを騙し兄エサウに成りすまして、兄が受けるべき祝福をヤコブが受け取りました。

 

 父イサクは確認した上で、エサウに成りすましているヤコブをエサウ本人だと思い、相続者として弟のヤコブを祝福してしまったのです。

 

 父の祝福を弟に奪われたエサウは、ヤコブを憎み、ヤコブに殺意を抱きました。ヤコブは父の家を離れ、母リベカの実家へ逃げて、伯父のラバンのもとに身を寄せました。伯父とも確執がありました。しかし、神がヤコブとともにおられ、ヤコブを祝福されました。

 

 生まれる前から神に選ばれていたヤコブは、人と戦い、苦境の中で神と戦い、アブラハムの契約と土地の相続と祝福とを勝ち取ったのです。神がヤコブを選んでおられたのに、神は、ヤコブの信仰によって、その選び(相続権)を勝ち取らせられました。

 

 キリスト(救世主)を生むイスラエル(ユダヤ民族)の父ヤコブは、信仰の戦いに勝利して、神の契約と祝福を受け取りました。

 

 神の契約のない異邦人の私たちは、ヤコブの信仰にならって、信仰による勝利者となる歩みが必要です。

 

 七つの御霊の教会は、ヤコブのように信仰の戦いによって勝利した者の教会です。それは、御霊によって与えられる御霊の信仰による勝利です。

 

 勝利を得るためには、神の人と戦い、「祝福してくださるまで、あなたを去らせません。」と神の人を離さなかったヤコブのように、強い願いと神への求めと、神を放さないしつこい信仰が必要です。

 

 神からの保証としるし(御霊の信仰)を得るまで、決してあきらめません。

 キリストが天に引き上げられた後に、約束の聖霊を受けるために、イエスの弟子たちはエルサレムに集まり、聖霊が下るまで祈り待ち望みました。そして、得たのです。

 

 永遠のいのちを得るために、最後まであきらめません。

 御霊による永遠のいのちの約束の確信を得るまで神を求め、確信を得たならば、喜びをもって御霊とともに歩んでまいりましょう。