ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

天国にはいる確信

 

 「あなたは天国に行く確信がありますか?」

 私が、エホバの証人の人にした質問です。

  

 それまで、聖書のあちらこちらから聖句を取り出してはものみの塔で教えられている事をせわしく語っていたそのエホバの証人の人は口ごもりました。

 

 もごもごさせながら、「とんでもない。私なんか⋯。十四万四千人の選ばれた人だけです。」と言った時には、こちらがびっくりしました。

 

 十四万四千人の人しか天国へはいれないの?天国の確信のないままで、何故そんなに熱心に伝道できるの?心の中ではいろんな思いが浮かびますが、急に黙ってしまった彼女を見て、何を言っても平行線だ、と理解しました。

 

 彼女もまた、「(エホバの証人の教えとキリスト教の教えとは)全然違いますね!」と叫ぶように言ったかと思うと、聖書をさっさと片づけて帰って行きました。

 

 エホバの証人の教えでは、イエス・キリストは神の御子だと教えていないようです。「イエスは神のひとり子だ。」と信じている私を、可哀そうにと憐れむ彼女です。

 

 でも、十四万四千人の人のことが、彼女の口から出て来るとは思いませんでした。聖書では、十四万四千人はユダヤ人であることが書かれていますが、そのことは御存じでしょうか。

 

 「私(ヨハネ)が、(額に生ける神の)印(すなわち、父の名と子羊の名)を押された人々の数を聞くと、イスラエルの子孫(ヤコブの血肉の子孫)のあらゆる部族の者が印を押されていて、十四万四千人であった。」(黙示録7:4)

 

 この十四万四千人のユダヤ人は、異邦人の時を完成させ、ユダヤ人の時に、地上に残っている世界中の十二部族のユダヤ人(本人が自分がヤコブの血を引く者だと気づいていなくても、神は御存じです。)と、御霊に忠実でなかったキリスト信者に神のことばを与えて、悔い改める者を神に立ち返らせ、永遠のいのちを得るようにと宣教の働きをするために、神に召されたユダヤ人たちです。おそらく、この使命を持って生まれている人々でしょう。

 ユダヤ民族の十二部族それぞれから一万二千人ずつが召されています。

 

 また、彼らは女(宗教)によって汚されたことのない人々です。ユダヤ教の教えもキリスト教の教えも、また、どんな宗教の教えをも受けたことのない人々のようです。

 

 「彼ら(十四万四千人のユダヤ人)は女(人間の教えを教える宗教、また、神のことばに混ぜ物のある宗教)によって汚されたことのない人々である。彼らは童貞なのである。

 (額に、父の名と子羊の名の印を押された)彼らは、子羊(救い主キリスト・イエス)が行く所には、どこにでもついて行く。彼らは、神および子羊(キリスト)にささげられる初穂として、人々の中から贖われたのである。

 彼らの口には偽りがなかった。彼らは傷のない者である。」(黙示録14:4,5)

 

 「神の子羊イエス・キリストはほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、神のために、この人々(贖われ、永遠のいのちを得た新しい創造の神の子どもたち)を王国とし、祭司とされました。彼らは地上(千年王国)を治めるのです。」(黙示録5:9,10)

 

 十四万四千人のユダヤ人は、子羊イエス・キリストの血によって贖われた神の子どもたちの初穂です。宗教に汚されておらず、混ぜ物のない神のことばを愛し、真理の御霊に支配される人々です。

 

 さて、「天国にはいる確信はありますか、?」の問いについてですが、私は聖霊のバプテスマを受けるまでは、確信がありませんでした。

 

 洗礼(水のバプテスマ)を受けると、目が開かれたように明るくなって、目に映るすべてのものが鮮やかに輝いて見えるようになりました。

 しかし、牧師から「天国にはいる確信はありますか?」と聞かれたとき、あのエホバの証人の人のように、言葉を失いました。

 

 イエス・キリストが私の罪の身代わりとなって死んでくださったので、私の罪は贖われ、神は私の罪を赦してくださった。そして、永遠のいのちを受ける特権が与えられたので、神の子どもとされるのだ、と知らされていたのに、天国にはいる確信はまったくありません。

 

 あのエホバの証人の人のように、「私なんかとんでもない。」と思いました。罪が赦されただけでも、なんと心が軽くなることでしょうか。この上、何を望むでしょうか。

 

 牧師は、救いの喜びに輝いていた私の目が曇るのを見て、「聖霊を受けたいですか?」と尋ねられました。

 水のバプテスマを受けて、一週間後のことです。聖霊が何かはわかりませんでしたが、もらえるものならば欲しい、と思いました。

 

 牧師夫妻に祈っていただき、一緒に受洗した兄弟姉妹とともに、その日のうちに、聖霊のバプテスマを受けました。

 私たちの場合は、舌が自由に動いて、知らない言葉、御霊が与えてくださった異言を語ることで、聖霊を受けたとわかりました。

 

 水のバプテスマのときの喜びとは、質の違う喜びが腹の底から湧き上がりました。

 理屈ではありません。天国にはいることに、何の疑いもなくなりました。

 

 「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。

 これは、信仰の結果である、魂の救いを得ているからです。」(ペテロ第一1:8,9)

 

 「罪が赦された。」という喜びとはまた、別物です。

 イエス・キリストを信じる喜びです。キリストに繋がり、天と繋がる喜びです。これは、神が分け与えてくださる御霊によって与えられる賜物なのでしょう。

 

 聖霊のバプテスマによって、御霊がうちに宿られました。御霊を悲しませるような言動を続けて悔い改めなければ、御霊は離れて行くでしょう。

 しかし、うちにおられるキリストの御霊を意識するならば、御霊が神の御思いを知らせてくださいます。

 

 御霊は生かす永遠のいのちであられ、真理を教える真理の御霊です。聖霊を宿す人々は、真理をうちに宿しているのです。

 うちなる方に語り、うちなる御霊に尋ねるならば、御霊が細き声で語ってくださいます。また、夢で、幻で啓示してくださるのです。

 

 御霊を受けた人は、もはや、ひとりではありません。自分のうちに、神格者であられる御霊がともにおられるのです。御霊は、生かすことを願われる真実な神です。

 私たちのうちに、永遠のいのちが宿っているのです。この永遠のいのちが天の御国へと導いてくださるのです。

 

 御霊に聞き、御霊から受け、御霊とともに歩むならば、天の御国がわが魂の帰るべき故郷であるという信仰が確かなものとされるのです。