ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

かろうじて救われる

 

 「(神の)さばきが私たち(イエス・キリストを信じる神の家〈キリスト教会〉)から始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たち(神が遣わされたもうひとりの助け主を心に迎えず、真理の御霊をないがしろにする人々)の終わりは、どうなることでしょう。

 (神に聞き従う)義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう。」(ペテロ第一4:17,18)

 

 七十人訳では、

 「義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人は、どこへ出ることになろう。」

 

 神の御霊に聞き従う義人がかろうじて救われる、と聖書は言います。

 救われる人は義人であるのに、大腕を振って、広い道を堂々と凱旋するのではないようです。

 

 「もし正しい者がこの世で報いを受けるなら、悪者や罪人は、なおさら、その報いを受けよう。」(箴言11:31)

 口語訳では、

 「もし正しい者がこの世で罰せられる(反キリストの霊によって苦しめを受ける)ならば、悪しき者と罪人とは、なおさらである。(裁き主であられる神御自身によって罰せられる。)」

 

 イエスは言われました。

 「努力して狭い門からはいりなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから。」(ルカ13:24)

 

 マタイは次のように、記録しています。

 「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。

 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13,14)

 

 口語訳では、

 「狭い門からはいれ。滅びに至る門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。(永遠の)いのちに至る門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。」

 

 いのちの道は、イエス・キリストの父が遣わされるもうひとりの助け主(真理の御霊)によらなければ、見いだすことができません。それは、人の教えの道ではなく、人間の知識や知恵によって知る道ではないからです。

 

 霊のことは肉なる者にはわかりません。永遠のいのちは霊であって、肉ではありません。

 いのちの道は、肉の道ではなく、霊の道です。また、いのちの主、生けるまことの神に遣わされた神の御霊、すなわち、イエス・キリストとひとつの思いのキリストの御霊である「真理の御霊」によらなければ、見いだすことのできない、肉なる者には隠された道であり、狭き門です。

 

 イエスはご存じでした。

 神の御子イエス・キリストを信じる者の多くの者が、このいのちの道に歩むのではないことを。いのちの道に入る狭き門を見いだす者はわずかであることを。

 

 イエスは、肉なる者がこの門をくぐることができないことを知っておられました。なぜならば、肉の思いは罪と死です。いくら、その人の魂が救いを求めても、その人の霊がきよいことを願っても、自分の力では実行できないのです。

 

 イエスは、「努力して狭い門からはいれ。」と言っておられます。イエスを信じたからと言っても、ところてん式にその狭き門を通過するわけではないからです。

 自分を律して、ただひたすら、永遠のいのちという目標に向かって走るように、と言っておられるのです。

 

 パウロは言います。

 「私は、すでに(永遠のいのちを得るための信仰の勝利を)得たのでもなく、すでに完全(天の御国の神の子ども)にされているのでもありません。ただ(真理を)捕えようとして、追求している(神を求め続けている)のです。そして、それ(永遠のいのちと安息)を得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。

 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、一事に励んでいます。すなわち、後ろのものを忘れ(神の御子イエス・キリストを信じておらず、神の敵として歩んでいた過去の生き方を改めて)、ひたむきに前のものに向かって進み(神の御子イエス・キリストの御霊によって新しく生まれ、永遠のいのちを得るという希望の伴う信仰の歩みを全うし)、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる(天の)神の栄冠を得るために、(永遠のいのちを得させられ、神の子どもとされるという)目標を目ざして一心に走っているのです。」(ピりピ3:13,14)

 

 「義人でさえ、かろうじて救われるのだとすれば、不信なる者や罪人は、どうなるであろうか。

 だから、神のみ旨に従って苦しみを受ける人々は、善を行ない、そして、真実であられる創造者に、自分の魂をゆだねるがよい。(義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。)」(口語訳ペテロ第一4:18,19)

 

 いのちの道は、キリスト教会に属する人々、神の子羊イエス・キリストの血によって罪が贖われた人々、すなわちキリストの血によって神に罪が赦された義人でさえ、努力しなければ見出すことのできない、狭い門の先にあるのです。

 聖書は、義人がかろうじて救われる、と言っているのです。

 

 イエスが、「聖霊を受けよ。」と言われたことばに従いましょう。

 イエスがキリストである証は、聖霊のバプテスマを授けることによります。なぜなら、バプテスマのヨハネも証言しているからです。ヨハネ自身は、水のバプテスマ(悔い改めのバプテスマ)を授けているが、キリストは、聖霊のバプテスマを授ける方だと証言しているのです。

 聖霊のバプテスマは、神がキリストと定められた神の子羊イエス・キリストの御名による、生かすいのちのバプテスマなのです。

 

 聖霊のバプテスマを受けることは、イエスがキリストであることを、信仰によって証しているのです。

 

 聖霊のバプテスマによって与えられる生かす御霊は、真理の御霊であり、私たちを正しい道、すなわち永遠のいのちを得させるいのちの道に導いてくださる「助け主」だからです。

 

 真理の御霊を受けないで、信仰の道を行くのは、コンパスも地図も持たずに、初めて登山するようなものです。どうやってゴールを目指すのでしょう。道をさ迷うだけで、たどり着けないのです。

 

 救い主「神の御子イエス・キリスト」が遣わされた目的は、罪人を死から救い出して永遠のいのちを与えるためです。

 もうひとりの助け主「真理の御霊」が遣わされた目的は、肉なるキリスト者をキリストが用意されたいのちの道へと導き、神の子どもに造り変えて永遠のいのちを得させるためです。

 

 真理の御霊とともに歩む者は、神の霊とともにある者です。神がともにおられるのです。神は、そのような人々に、義の栄冠を用意しておられます。

 

 神は、義の栄冠にふさわし人々を迎え入れ、ふさわしくない人々の前でその扉を閉じられるのです。