ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

怒りを捨てよ 人の救いを祈る御霊

 

 「怒ることをやめ、憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。

 悪を行なう者は断ち切られる。(神の民に属していても、悪を悔い改めることなく悪を行ない続ける者の神の契約〈御救いの契約〉は解消される。)しかし主を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう。(主の助けを待ち望み、主に信頼する者たちは、神がお与えになる約束の地〈とこしえのイスラエルに用意されている、罪の贖われた者たちの国、千年王国〉の国民となろう。)」(詩篇37:8)

 

 怒りが増すと、怒りの炎は燃え上がり、自分自身を激しい炎で焼き尽くします。人格を狂わせてしまいます。

 

 神は、自分のうちに芽生える悪の感情を、自分自身で治めるように仰せられます。

 なぜならば、怒りや妬み、憎しみは、罪の根を張らせるからです。

 

 悪い感情を持ち続けているならば、罪は戸口で待ち伏せして、悪しき霊が近づくと、その人のうちに渦巻く悪い感情を足場として、罪を犯す機会を狙ってきます。悪しき霊は、悪い行ないに導くために、悪い感情を持つ人を恋い慕っています。

 

 しかし、人は、それを治めなければなりません。悪しき霊の言いなりになってはなりません。悪しき霊は、人の首根っこを掴んで、無理強いをするのではありません。

 悪い感情にあぐらをかいて、その人が罪を犯すのに必要な手段を耳打ちするだけでよいのです。

 

 たとえば、怒りを持ち続ける者をナイフの置かれた場所へと導き彼の目にナイフを見せる。その瞬間、悪しき霊は彼のうちにはいって殺意へと発展させ、行動に走らせるのです。

 

 彼は、自分はそんなつもりはなかった。何か別の力が働いたとしか思えない、といくら言い訳をしても、実際にナイフを持つのは彼の手であり、悪しき行ないを実行するのも、彼自身なのです。

 

 神が彼にご覧になる罪は、彼がそれ(怒りの感情)を治めなかったことです。

 神は、彼のうちにある悪しき感情が彼をむしばむことを御存じです。それゆえ、それを治めなければならないと、神は仰せられます。

 

 最後の裁きの座に立つ時、人はひとりひとり、自分自身の命の使い方に対して、裁き主に、申し開きしなければなりません。

 

 悪い感情を治めない心は、悪しき霊の足場となり、悪しき事を生み出します。しかし、悪い感情に苦しみ、悪い感情と戦って治める良い心は、悪しき霊の働きを止め、悪い行ないから身を守ります。

 

 自分の心を正しく管理する者は、神の助けを受けます。神は、罪と戦う者を支え、神にすがって身をゆだね神に信頼するならば、勝利へと導かれるのです。

 

 悲しみのあるとき、怒りのあるとき、神がわからなくなったとき、みことばの中に神を求めましょう。

 

 自分自身のうちには悪しき霊と戦う力はありません。悪しき霊と戦ってくださるのは、キリストの御霊であり、御霊がともにおられる自分自身の霊です。

 私たちがうめくとき、うちにおられる御霊は、その原因も、その悲しみも、痛みも、苦しみも、嘆きも、また、怒りをもご存じなのです。

 

 自分ひとりで抱えないで、心配してくださる御霊に打ち明けましょう。御霊は、その原因も解決策も御存じです。しかし、人が御霊に向かなければ、向くまで待たれる紳士です。

 

 怒りや悲しみ、痛みなどを自分のうちに飲み込むならば、自分自身が病んでしまいます。

 神は、人に感情をお与えになられた方です。そして、人に感情を治めるように期待しておられます。

 

 悲しみがある時は泣きましょう。我慢しないで、涙が枯れるまで泣きましょう。

 怒りの治まらない時は、怒りの言葉を叫びながら固いクッションのような物を思いっきり叩き続けてみてください。怒りは、手に力を込めさせます。大きく叫んでいた声も、手の痛みが増すごとに小さくなっていきます。そして、手が痛くてやめることとなります。悪い言葉を発散したあとで、心は軽くなり、また、心に溜まっていた悪いものが減っていることに気づくのです。

 

 苦しいときは、「苦しい。」と御霊に正直に言ってみてください。痛みのあるときには、「痛い。」と素直に打ち明けてみてください。

 御霊は、もっとも近いお方です。自分のうちにおられる方だからです。誰の手も借りずに、御霊と向き合うだけです。

 

 悲しみや怒りは、神との間に隔てを設けるときがあります。悲しみの涙で御霊が見えなくなったり、怒りが御霊を消して、自分ひとりのように感じるのです。

 

 しかし、私たちのうちにおられる御霊は、祈る神です。私たちが打ち明ける前から、すべてを御存じなのです。

 

 日本人は、何か困った事や頼み事がある時は、神社へ行って、手を叩きお祈りする習慣があります。日本人は、神が私たちの祈りを聞いてくださるお方であると信じているからです。

 

 キリスト者のうちにおられる御霊は、祈りの対象でもあり、また、みずから祈られる神です。

 祈る神って何でしょう。誰に向かって祈っておられるのでしょうか。

 御霊は私たちのうちにあって、私たちのために執り成してくださっているのです。天の神は、キリスト者おのおのの、ひとりひとりのうちに、祈る神(御霊)を住まわせておられます。

 

 「私たちを、すべての世代のキリストの民といっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油注がれた(聖霊のバプテスマを授けられた)方は神です。(私たちは信仰によってイエス・キリストのうちにあって、キリストから受けた注ぎの油、すなわち、聖霊のバプテスマを受けました。)

 神はまた、(罪の赦しと御救いの)確認の印を私たちに押し、保証として、御霊【永遠のいのち】を私たちの心に与えてくださいました。」(コリント第二1:21,22)

 

 「私たちは、被造物全体が今に至るまで、(アダムの罪が死をもたらしたゆえに)ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。

 そればかりでなく、御霊の初穂(肉に死んで御霊によって新しく生まれた第二のアダム〈イエス・キリスト〉)をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われること(復活の完全なからだとなること)を待ち望んでいます。

 私たちは、この望みによって救われているのです。」(ローマ8:22-24)

 

 「(福音を信じる私たちが)もしまだ見ていないもの(キリストが統べ治められる千年王国)を望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。

 (私たちのうちにおられる)御霊も同じようにして(忍耐をもって熱心に)、(悪しき者に誘惑される)弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊御自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのために執り成してくださいます。(私たちのうちに住まわれる御霊は、私たちの信仰がなくならないように、いのちの道を歩むように、といつも、父なる神に執り成し祈っておられるのです。)

 人間の心を探り窮める方(神)は、御霊の思いが何か(永遠のいのちを得させるためであること)をよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神の御心に従って、(父なる神が子としてくださる)聖徒のために執り成しをしてくださるからです。」(ローマ8:25-27)

 

 「主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。

 (主に横柄でありながら)おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな。」(詩篇37:7)