あるエッセイを思い出します。幼い娘と母親の会話を耳にしたエッセイストの心に留まったお話でした。
幼い娘が母親に尋ねました。「愛ってなに?」母親は言いました。「世界におにぎりが一個しか無くなったの。どこへ行っても、食べ物はないの。パパとママとAちゃんの三人に、おにぎりが一個だけ。どうする?」娘は答えました。「パパとママとAちゃんとで分けるの。」すると、母親は言いました。「ううん。パパもママも、おにぎりをAちゃんにあげるの。」「パパとママ、お腹空いちゃうよ。」「パパとママは食べないの。お腹空いてても、Aちゃん食べなさいって全部Aちゃんにあげるの。」「どうして?」「パパもママもAちゃんを愛しているから。それが、愛なんだよ。」
愛って与えるものなんだなあ。自分を犠牲にできるのが愛なんだなあ。
好きなことが、愛だと思う人がいます。「愛している」と言うことが、愛だと思う人もいます。「愛している」と言われて、愛されていると思う人もいるのでしょう。
尾崎豊さんが、ノートに「愛って何?」って書いていたと言うのを聞いた事があります。尾崎さんにキリストの愛を伝えたかったなあ、と思います。
愛を求めて、人を求め、手の中で消えて行く。求めていた愛に出会うことなく、失意のうちに心がさまよう。そんな人生を見るような気がします。
尾崎さんの周囲に愛がないわけではなく、自分を丸ごと受け止めて、それでもなお、揺らがず全身全霊で大丈夫と思える確かな愛を求めていたのだろうと思います。尾崎さんの魂の叫びであり、呻きだったのでしょう。
肉体を抱きしめる安心ではなく、魂が包まれる安息を伴った確かな愛、いつも変わらずある自分の居場所、霊も魂も愛に覆われる魂の居るべき場所を捜していたのではないでしょうか。
尾崎さんの魂は、神の愛を知っていたのでしょう。その存在があることを知っていたから、必死に捜していたのでしょう。もやの中を手探りで歩き回り、愛に出会うために魂は飢え渇いていたのでしょう。
人は誰でも、誰にも言わない秘密があり、他人と共有できない孤独な部分があります。肉体を持つ人間に求めても、平安を手にすることは出来ません。確かな安らぎを目的地として、隠された真実なものを、腹から絞り出すように欲していたのでしょう。尾崎さんは、それが神の愛なのだという理解に至る前に、天に召されました。
「愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」とヨハネⅠ 4:8にあります。尾崎さんは、鼻から息をする者の中に自分を満たす愛を見つけることができないことを知っていました。尾崎さんは、神の愛でなければ満たされない自分の霊の存在に正直な人でした。愛がある人だから、神しか与えることのできない真の愛に惹かれていたのでしょう。愛は神であるというところまで意識は至っていないですが、神という概念ではなく、愛という神の本質を求めていたのでしょう。
「私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、神はそのひとり子を世に遣わし、その方(御子イエス)によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに、示されたのです。」(ヨハネⅠ 4:9,10)
神の愛は、ご自分の天の栄光を捨てて、人の罪の身代わりの子羊として罪の生贄になるために、朽ちる肉体をまとって地に下られた御子イエスによって、人々に示されました。
塵で造られた人は、朽ちて行く罪人です。正しい者ではありません。神に背き、敵対する、不良品です。陶器師である神は、これらの塵のすえを、打ち壊し、堅固な岩石から、新しい民を造り出すこともできる全能者です。
どうして、神のひとり子が、塵のすえのために犠牲を払わねばならないのでしょう。どうして、神の御姿である、永遠に生きる方が、朽ちる肉体をまとう卑しい者になる必要があるのでしょう。
神が、人を愛されたからです。ご自分が卑しく惨めで憐れな者になって人が救われるのならば、それが本望なのです。人から何かを得ようというような腹積もりなど、ありません。ただ、滅びゆく人が憐れでならないのです。ご自分のいのちに代えてでも、救いたいのです。
「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それは、御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠のいのちを得るためである。」(ヨハネ3:16)
神は、御自分が造られたものを愛しておられます。この世を滅ぼすのは、神の本望ではありません。神が滅ぼすのは、悪魔と悪霊と彼らに従う世です。世が憎いのではありません。世を救おうと、ひとり子を地に遣わされたのです。御子イエスは、天から差し伸べられた神の御手です。救いの腕です。神が地上に伸ばされた御腕(主イエス・キリスト)にしがみつく者をしっかりと受け止め、天に引き上げてくださるのです。
神の御腕(主イエス・キリスト)にしがみつくと、愛がわかります。人はみな、愛に応答する受容体なる霊を持っています。人は誰でも、救われるべき機能を持っているのです。信じるという受容体が何と結びつくかは、ひとりひとりの自由意志です。各々自分の良いと思うものと結ばれるのです。自分が結び合わせたものと一つになるのです。
「愛」は、自分が神に愛された者であるとわかった時に、その人のうちで愛となるのです。自分は神に愛された者であることがわかることは、全財産と引き換えても得るだけの価値があります。
自分は神に愛された者、人から嫌われようと、憎まれようと、蔑まれようと神が自分を愛しておられると悟った者は、「愛」を得たのです。愛を得た者は、神が愛であることがわかるのです。