ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

人の行ないに従っての報い

 

 「神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。

 忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。

 患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、悪を行なうすべての者の上に下り、栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、善を行なうすべての者の上にあります。

 神にはえこひいきなどはないからです。」(ローマ2:6-11)

 

 因果応報という言葉がありますが、神もゆえなく裁かれるのではありません。その人の行ないに従って報いをお与えになるのです。

 報いと言っても、報われる報いと、良いことを期待しても報われない報いとがあるようです。

 

 どんな状況の中でも、忍耐をもって善を行ない、そして、絶望的な状況でも、善に報いてくださる栄光ある神と、神の称賛と、変わらぬ神の愛を信じ、悪に加担せず真理を求め続ける者には、永遠のいのちを与えられます。そのような人は神の子としてふさわしいと判断されるからです。

 

 党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。その人の中に、御子キリストのご性質を見出されないのです。党派心を持つ者は、平和の主にふさわしくありません。キリストの御霊に従わないで、悪しき霊に従う者なのです。

 

 神の御国で生きる永遠のいのちが与えられるという報いは、悔い改める心へりくだった者に与えられるのです。

 

 パウロは言います。

 「ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の予知はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。

 私たちは、そのようなことを行なっている人々に下る神の裁きが正しいことを知っています。そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。

 それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。

 ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しい裁きの現れる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。」(ローマ2:1-5)

 

 これは、キリストを主と告白している人々に語られています。「義人は信仰によって生きる。」のです。

 

 イエス・キリストを信じて、キリストの贖いの血を受けて罪赦されて義とされている、と言ってはなりません。義とされたことと、神が認められる義人とは違います。キリストの贖いの血によって義とされたとしても、キリストの信仰によって生きなければ、義人ではないのです。神の義は、義人を神の御国に入れることです。

 

 キリストの信仰とは、自分の思いや判断ではなく、肉の思いに死んで、御父にへりくだり、御霊に導かれ御霊の思いで生きる信仰です。

 

 イエス・キリストの御名を唱えながら、他人をさばき、心高ぶる者は、まことのいのちを与える者ではなく、御霊を消す者です。しかし、神の慈愛は、悔い改めに導かれます。人がそのかたくなさと悔い改めのない心で、裁かれる者として数えられることのないためです。

 

 神の豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじ、かたくなな心のままで悔い改めないならば、神の正しい裁きが決行されるとき、最後の裁きで、神の御怒りを受けるのです。

 

 イエス・キリストの御名を呼ぶ者であっても、えこひいきはされません。

 

 妬みと殺意と欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、情け知らずの者、慈愛の無い者、高ぶる者、わきまえのない者、人を人と思わない者は、神を知ろうとしたがりません。神の正しさを憎む者です。

 

 信仰によって生きることのない人は、この世の人々と同じです。肉の力で生きるのです。神の御霊にへりくだることがありません。

 

 「律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをする場合は、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。」(ローマ2:14,15)

 

 クリスチャンでなくても、御霊の思いの中で生きているかのように、慈愛の心で生きる人々もいます。神の霊にへりくだって生きる人々です。彼らの心には、聖なる御霊の律法が書かれています。彼らは、イエス・キリストの御名に歯向かったりはしません。

 

 良い報いを受ける人は、心へりくだって悔い改める人です。

 

 悔い改めと祈りをもって、寿命に十五年を加えられたヒゼキヤ王が、病気になって、その病気から回復したときに記した言葉があります。

 「ああ、私の苦しんだ苦しみは平安のためでした。あなたは、滅びの穴から、私の魂を引き戻されました。あなたは私のすべての罪を、あなたのうしろに投げやられました。

 よみはあなたを褒めたたえず、死はあなたを賛美せず、穴に下る者たちは、あなたのまことを待ち望みません。

 生きている者、ただ生きている者だけが今日の私のように、あなたを褒めたたえるのです。」(イザヤ書38:17-19)

 

 よみは神を褒めたたえる場所ではありません。死は神を賛美することがありません。よみも死も、神から遠く離れたものです。そこにいのちがないからです。穴に下る(滅びる)者たちは、神の慈愛に満ちた救いに背を向け、神の真実な愛を待ち望まないのです。神を疑い、神を憎み、神の真実を知ろうとせず、信じようとはしません。

 

 神の憐れみを受けたヒゼキヤ王は言います。「生きている者、ただ生きている者だけが今日の私のように、神を褒めたたえるのです。」

 

 神を褒めたたえるのは、生きている者だからです。その人の霊は、死から甦り、御霊に生かされているのです。霊の生きている者でなければ、神を褒めたたえ神を賛美することはできないのです。

 

 クリスチャンであっても、正しい道にいなければ、その行ないによって、また、不信仰によって御怒りを受けます。しかし、神にへりくだる者は、滅びの穴から魂を引き戻される神に立ち返り、自分の歩みや行ないを悔い改めて、永遠のいのちを受けるのです。