ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

信仰に勝利する殉教者の教会

 

 一粒の麦として殉教に召された御霊の教会は、三つあります。

 キリストとひとつ心となって、キリストのみわざを成し遂げる十四万四千人のユダヤ人です。彼らは、神の子羊イエス・キリストの花嫁として、父なる神が子羊のために召された人々です。

 

 それ以外に、殉教の教会に属する人々は、大きく分けて、ユダヤ民族の伝統やしきたりにこだわらず異邦人のような生活をしながらキリストを信じるユダヤ人ビリーバーと、イエス・キリストを「私の主」と告白するクリスチャンが属する御霊の教会。

 そして、ユダヤ民族の契約に立ちユダヤの伝統やしきたりを重んじ、ユダヤ人としてのアイデンティティを保ちつつイエス・キリストをメシアと信じるメシアニック・ジューと、自分がユダヤ人であることを自覚しないで先祖の信仰を継承し目に見えない霊なる神に仕える、キリスト教会に属さない異邦人(実はユダヤ民族の父ヤコブの血を引く人々)の属する御霊の教会です。

 

 ユダヤ人ビリーバーとクリスチャンは、異邦人の時に殉教します。彼らの血によって彼らの民族や国から不信仰を取り除き、多くの人に神の義を知らせるためです。

 彼らの血は、多くのいのちを生むでしょう。すなわち、多くの人がまことの神に立ち返り、永遠のいのちを得させられるのです。

 

 ユダヤ人の時の殉教者は、メシアニック・ジューと霊とまことをもって生ける神に仕えて来た少数民族や少数部族に属する隠されたユダヤ人(ヤコブの子孫)、また、日本の神道や仏教の中にいる知られざるユダヤ人(ヤコブの血を引く人々)でしょう。

 彼らの血は、多くの人々を主に立ち返らせるでしょう。神は、彼らの血によって民族を贖い、不信仰の罪を取り除いて、ユダヤ人に悔い改めと生けるまことの神への信仰、そして永遠のいのちを得させられるのです。

 

 七つの御霊の教会を完成するのは、信仰の勝利者でならなければならない、という条件があります。

 七つの御霊の教会に属しているから永遠のいのちを得るのではなく、信仰の勝利者たちが、天の御国にはいるのです。

 

 異邦人の時に完成する、ユダヤ人ビリーバーとクリスチャンの殉教者の教会には、白い衣を汚さなかった者がいます。御霊を汚さなかった人々です。

 

 しかし、この教会には死にかけている人々がいます。それは、御霊を汚したからです。

 

 初臨の神の御子イエスは、ユダヤ人の王として来られました。神と契約を結んだユダヤ民族の罪を贖うために、血の契約を持つイスラエルに遣わされました。

 再臨の神の子羊キリスト・イエスは、イスラエルの王として来られます。キリストと新しい契約を結んだ「とこしえのイスラエル(永遠のいのちを得る神の民)」を救うために来られます。

 

 三人の賢者たちに「ユダヤ人の王」と呼ばれたイエスは、ご自分の血をもって世の罪を取り除き、悪魔に打ち勝ち死から甦って、天に上られて天の神の御座の右に着座し、聖霊のバプテスマを授ける権威を持つキリストとなられました。

 

 キリストはモーセの律法を完成されたので、イスラエルの垣を越えて、契約を結んでいなかった無割礼の異邦人にまで御救いを及ぼして、真理の御霊によって、「とこしえのイスラエル」を新しく造られます。

 

 キリストの再臨は、この新しく創造された「とこしえのイスラエル」を救うために、「とこしえのイスラエルの王」として来られるのです。

 とこしえのイスラエルは、割礼の民ユダヤ人と無割礼の民・異邦人が混在する国です。キリストがお与えになった新しい契約のしるしの「心の割礼(真理の御霊)」を受けた人々の国なのです。

 

 とこしえのイスラエルでは、ユダヤ人も異邦人もありません。神の子羊イエス・キリストにあって、一つの国民なのです。

 子羊の血が、割礼のあるユダヤ人と無割礼の異邦人の間にあった隔ての壁を打ち壊し、両者とも一つの御霊において、父なる神と和解したので、天の御国にはいる恵みを受けたのです。

 

 「ですから、思い出してください。あなたがた(神との契約がなくモーセの律法の下にいない人々)は、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々(ユダヤ人)からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、そのころのあなたがたは、キリスト(神が遣わすと約束しておられたイスラエルの救世主)から離れ、(神から御救いの約束をいただいている神の民)イスラエルの国から除外され、約束の計画については他国人(神の計画の外の人々)であり、この世にあって(御救いの)望みもなく、(救ってくれる)神もない人たちでした。

 しかし、以前は遠く離れていたあなたがた(無割礼の異邦人)も、(救世主・神の子羊が現われた)今では(神の御子)キリスト・イエスの(御名の覆いの)中にあることにより、キリストの血によって(神に選ばれた民と)近い者とされたのです。

 キリスト(神の子羊イエス)こそ私たち(人類の)平和であり、二つのもの(割礼のある者と無割礼の者)を一つにし(イエス・キリストのしもべとし)、(ユダヤ人の高ぶりと異邦人の妬みの)隔ての壁を打ち壊し、ご自分の肉(肉が破られ血を流した肉体)において、(選民ユダヤ人と異邦人の間の)敵意を廃棄された方です。

 敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。(神の御子キリスト・イエスは、モーセの律法を持つか持たないかで区別されていたユダヤ人と異邦人の双方に、共通の律法【真理の御霊】をお与えになりました。)このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人(イエス・キリストをかしらとするキリストのからだ)に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架(罪の贖い)によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。(十字架の贖いは、モーセの律法の下にいる人もいない人もその罪を等しく赦すのです。)」(エペソ2:11-17)

 

 「(イエス・キリストの御名によって救われた)私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。(御霊は分け隔てをなさいません。イエス・キリストにある者は、ユダヤ人も異邦人も、富める者も貧しい者も、男も女も年寄りも幼子もみな一つの家族なのです。)

 こういうわけで、(イエス・キリストのしもべとなった)あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒(神に聖別されていたユダヤ民族)たちと同じ国民であり、神の家族なのです。」(エペソ2:18,19)

 

 神の御心は、真理の御霊を受けた人々が、ユダヤ人も異邦人もなく、一つとなることです。

 

 イエス・キリストを信じる異邦人を割礼の民ではないからと言って、兄弟姉妹として受け入れないユダヤ人ビリーバーも、また、ユダヤ人をイエス・キリストの兄弟として愛さないクリスチャン、すなわちユダヤ人の暴走を見て心痛めることをせず、御救いを持たない異邦人たちのようにイスラエルを憎み、ユダヤ人を呪うクリスチャンは、御霊と一つとなっていないのです。

 

 真理の御霊は、敵意ではなく、両者を一つにする執り成しの霊であり和解の霊なのです。

 敵意は、キリストの敵である反キリストの霊であり、反ユダヤの霊であり、悪魔から出たものです。

 

 「だから、(キリストの福音を)あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。(裁きではなく和解であり、愛であり、救いであり、赦しです。)それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目を覚まさなければ、わたし(キリスト)は盗人のように(予告もなく)来る。(その時用意ができていない者は、殉教の使命を果たすことができず、子羊の婚宴に招かれる御霊の殉教の教会から外される。)」(黙示録3:3)

 

 メシアニック・ジューと、先祖の信仰を継承し神に仕える異邦人たち(隠されたヤコブの子孫)は、ユダヤ人なのにユダヤ人のアイデンティティを捨てて異邦人のように暮らすユダヤ人ビリーバーを蔑み、仲間であると思わないならば、神は彼らを退けられます。

 彼らは、取税人や遊女を蔑み、彼らとともにおられるキリストを迫害した祭司長やパリサイ人たちの罪を犯しているのです。自分たちは正しい事をしていると思っていますが、実は神の御霊を傷めていることを知らないのです。

 

 ユダヤ人ビリーバーは聖霊のバプテスマを受けていますが、メシアニック・ジューの多くは律法の下にいて、新しい律法(真理の御霊)を受けていない人が多いのです。

 

 イエスは言われました。

 「まことに、あなたがた(神に忠実な自分たち〈律法の下にいるメシアニック・ジュー〉の方が神の御前に正しい。ユダヤ人ビリーバーはユダヤ人であることを棄てた異邦人であってもはや同国民ではない、と考えるメシヤニック・ジュー)に告げます。取税人や遊女たち(ユダヤ人ビリーバー)の方があなたがた(メシアニック・ジュー)より先に神の国にはいっているのです。」(マタイ21:31)

 

 殉教者は、霊において、神の御心のうちに留まらなければなりません。御霊の教会は、御霊の御思いの中に居る人々の教会なのです。

 

 争いや敵意があるならば、悔い改めて、思いを正さなければなりません。

 御霊の殉教の教会に招かれていながら、このしみは大きな損失です。それは、自分自身の聖なる使命を失うことになるからです。

 

 殉教者の血は、多くの人々の目を覚まし、我に返らせて悔い改めさせ、世から神に向きを変えさせる、新しいいのちの御力を宿す血なのです。

 

 神のためにいのちをささげるから殉教ではありません。そのささげられる血がしみ(妬み)、傷(赦せない心)、しわ(高ぶり)のないきよい血であることが求められるのです。

 

 自分自身を神に受け入れられる献げ物にすることが大切です。

 

 「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神の御心は何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新(聖霊による新生と信仰の更新)によって自分を変えなさい。」(ローマ12:2)

 

 今は、信仰の勝利者となるために自分自身を整え、備えられる時なのです。