「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」と、イエスはいわれました。
どのようにして生まれることができるのですか。
「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。」
新しく生まれなければ、神の国に入れないようです。
水のバプテスマで、「私は神から離れた罪人でした。私の罪をお赦しください。神様、イエス様の血潮で私を洗い聖めてくだい。私は神に立ち返り、神の子イエスと共に生きていきます」と信仰表明をします。
これで、私は神の家族になった、と思っていました。
しかし、イエスはいわれます。「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」
私は母の胎から生まれ、父と母を持つ人間です。「神は、ありのままのあなたを愛しておられます」といわれるのに、ありのままの生まれつきの肉のままの私では、神の国いわゆる天国に入れないというのです。
神の国は、この世の朽ちて消えて行く現象で造られたこの世の世界とは、全く異なる世界のようです。
肉は、やがて死を迎え腐敗し、朽ちていきます。神の国は、永遠の国です。時間によって劣化するものではありません。
この永遠の国に入るためには、御霊によって生まれ、霊の存在にならないといけないようです。永遠の国には、永遠のいのちを持ち、永遠に生きる者でないと入れません。
水のバプテスマを受けて神の家族となったはずなのに、どうしたら永遠に生きる霊の子になれるのでしょうか。
イエスは、バプテスマのヨハネから水のバプテスマを受けられ水から上がられると、聖霊が鳩のように天から下って来てイエスの上に留まられました。
その後、聖霊に満ちたイエスは、御霊に導かれて荒野に四十日間おられ、悪魔の試みに会われました。誘惑の手を尽くした後で、悪魔はしばらくの間イエスから離れたのでした。
神の子であるイエスも聖霊を受けたのです。生まれつきの人間である私がありのままの肉の力で、霊なる神の御心を悟り、滅びゆく堕落したこの世にあって聖い神に従う事は出来ません。御霊によらなければ、永遠のいのちの歩みは出来ません。
イエスは御父にお願いしてくださいました。それで、父なる神は、キリストの名によって、イエスを主と告白する者に御霊を遣わされるのです。
御霊は目には見えません。イエスはいわれます。「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者も皆、その通りです。」
御霊を受けるのを人は見ることは出来ません。イエスの上に鳩のように下った聖霊を見たのは、イエスとバプテスマのヨハネのふたりだけでした。他の人には見えませんでした。
しかし、人々はイエスがされる癒しや死人を生き返らせる奇跡、その他のわざを見て、神がイエスとともにおられるのを知りました。
御霊によって生まれる者もそうです。目に見える肉体で生きる普通の人間なのに、目に見えない神を知り、イエスを神の子であると信じ、イエスを証します。
この世の人々は不思議に思います。何故イエスがキリストだと言うのか、自分達が信じて来た神々と同じではないのか。クリスチャンは排他的だ。何故科学で立証できない事を信じ、イエスを神と思うのか。神を愛するって何だ。神は信じるもので、愛する対象ではないだろう。
しかし、クリスチャンの中にある、柔らかい平安に触れると、(何だろう?この人達は、私達とは何か違う)と思うわけです。
彼らは、滝行とか修行を積むわけではないのに、何かの境地に達しているような振る舞いをする。何故だ。不思議な存在です。
霊のことは、この世の人間にはわかりません。永遠に生きる霊の事は、神の御霊によらなければ、分からないのです。滅びる霊の事はよく知っていますし、悪魔の与えるものでこの世は満ちています。
この世の霊では、神の国に入る事はできません。この世の霊は、肉を喜ばせます。キリストの霊である御霊は、神を喜ばせます。
悪魔の霊は、生まれ変わる必要はありません。生まれつきのままの人間の肉が悪霊の住まいです。
キリストの霊は、肉のままでは受けられません。十字架でキリストとともに肉に死んだ者のうちに、御霊は住まわれるのです。イエスを主としてキリストとともに歩む決意をし、信仰がキリストに結ばれる人のうちに御霊が住まわれるのです。
神は、御霊を与えて、永遠に生きる霊の子に新しく創造されるのです。人は、新しく生まれなければ、神の国に入ることが出来ないのです。
御霊によって生まれた霊の子は皆、顔の覆いを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これは、御霊なる主の働きによるのです。
新しく生まれた人は、イエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見ていないけれども信じており、言葉に尽くすことの出来ない、栄えに満ちた喜びにおどっています。
これは、信仰の結果である、魂の救いを得ているからです。