ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

悔い改めと感謝

 

  イエスの話を聞いて、命懸けで愛して下さるイエスの存在を知ります。イエスは自分のことを理解してくれる人のようです。そのままで受け入れてくれる人のようです。温かい方のようで、優しい眼差しを感じます。

 

  私の悲しみを知り、包んでくれます。私の苦しみを知り、ともに傷んでくれます。私の寂しさを知り、隣に居てくれます。孤独の闇に希望の灯をともしてくれます。

 

  イエスを愛する人は、困難の中で耐えています。声を上げません。訳のわからない人達です。どうして、声を上げないのですか。叫ばないのですか。クリスチャンは、我慢するのですか。

 

  このイエスとともにいたい、と思います。でも、私もあの人達のようにならなければならないのですか。

 

  クリスチャンは、感謝だ、と言います。何が感謝でしょうか。クリスチャンは、喜び笑っています。わたしには、喜びがありません。何も楽しくないのです。わたしには、馴染めません。

 

  諦めて、イエスから離れますか。それとも、イエスを知りたいと、イエスを求めますか。

 

  目に見える人を見ていると、色々な思いが湧きます。目に見えないイエスを求めると、目に見えるものが見えなくなります。イエスを探し求めていると、目で確かに見ているはずの世界が、思いに映らないのです。自分の思いがそこに無いからです。

 

  イエスを求めると、目の機能が変化するようです。網膜に映し出されるものではなく、脳に映し出されるものを見るかのようです。目の前のものではなく、気づかないでいた霊の世界のものを見ているようです。

 

  人に悔い改めるように言われても反発します。心が堅くなります。イエスに思いを向け、イエスを知ると、この方には打ち明けても良いと思えます。何故なら、イエスは私を責めないお方のようです。何を言っても驚かず、口を挟まず、ただ静かに聞いてくれます。

 

  イエスの眼差しは、温かく深く優しいです。これが、愛の眼差しなのですか。イエスに見つめられるだけで、報われたという気持ちになります。何も言わなくてもわかってくださるような、不思議な人です。

 

  イエスの愛は、傷ついてとげとげになった私の心を優しく包んでくれます。人は皆私の周りから去っていくのに、イエスは傷つけるような言葉を言っても憐れみ深い眼差しで見つめてくれます。私の言葉ではなく、私の傷ついた心をご覧になって痛んでくださいます。

 

  イエスは、傷ついた私を憐れんでくださるのです。私が傷ついた原因まで知っておられるようです。私の事を丸ごと受け止め、愛で包んでくれます。母親の胎内にいるようです。何も心配しなくてもいいのです。何も害するものもなく、守られているようです。

 

  イエスは、会ったばかりなのに、私のことを知っておられます。イエスには心を開いても良さそうです。今まで、心開いたら裏切られることばかりでした。後悔し、話した自分を嘆き、裏切った人を恨みました。私の中には、愛なんてありません。人を信じることが恐いのです。

 

  イエス様、わかってくれますか。あなたを信じてもいいですか。

 

  心は乾き、不毛の地のようです。種を蒔いても芽は出ません。堅い硬い心は、何も受けつけません。それでも良いですか。

 

  イエスは優しく抱きしめられた。何故だかわからないけれど、涙がとめどもなく流れ落ちて来る。乾き干からびた目から、溢れ落ちる。

 

  私はこれを捜していたのだと気づく。私は泣きたかったのだ。私の涙を受け止めてくれる人の前で、心に溜まっている悲しみや嘆きや不安や痛みを吐き出したかったのだ。私をありのままで受け入れてくれる安らぎの中で安心したかったのだ。

 

  目から涙が滴り落ちると、不思議なことに、乾いた心までが潤って来た。体から水が出て行くのに、何故、体の中が潤うのだろう。ただ分かるのは、私の心が今は乾いていないということだ。

 

  イエスは、私の心の中に生ける水を注いで下さったのです。天の聖所から流れてくる生ける水は、キリストの血潮の赦しへと導かれました。

 

  イエスは命懸けで私を愛して下さった。私の罪を赦すために、父に「彼らを赦したまえ」と執り成しつつ、私の罪の呪いを代わりに受けて死なれたのだ。罪が赦されているという解放感の中で見えてきたのは、私の罪でした。

 

  自分には罪は無い。私は悪くない。あの人が悪いのだと、がんじがらめになっていた私の心が、縄目から解かれると歪みが徐々に戻り始める。もう自分で守らなくても良い。痛みも悲しみもイエスに打ち明け、軽くなった。すると、客観的に見る余裕が出来てきた。

 

  私も人を傷つけていたことに気づく。自分が被害者だと思っていたのが、自分も罪深いことを言ったり、したことが見えて来た。

 

  自分を守って頑なになっていた心は、イエスの愛で溶かされ、生ける水によって柔らかくなって来た。柔らかくなった心からは、反省する気持ちが生まれた。

 

  頑なであった時は、顔を伏せて恨み言を言っていた。柔らかくなった心は、うな垂れて赦しを請う者となった。私が悪かった。私も罪を犯しました。赦してください。

 

  癒しの涙ではなく、悔い改めの涙を流す。イエスに向かって、罪を打ち明ける。正直に告白する。すると、イエスは、あなたの罪は赦されたと宣言され、心に平安を与えられた。

 

  罪が赦された喜びを知る。感謝に満ち溢れる。ただただ、感謝。ありがとう。イエス様。私を罪から解放してくれてありがとう。赦してくれてありがとう。愛してくれてありがとう。

 

  感謝する者になろうとしたわけではないのに、私の内から感謝が溢れる。悔い改めも感謝も私から出たものではない、と思う。

 

  心にあるものを正直にイエスに打ち明けたら、イエスが生ける水によって私の中で働き、新しい私を生んでくださったのだ。

 

  悔い改めると、イエスとの距離が縮まった。私の罪がイエスを隔てていたのだ。悔い改めたら、赦しを体験した。赦しを体験すると、イエスを信頼した。イエスは、隠し事のない人となり、何でも打ち明けられる親友となった。