ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

まことの救世主

 

 人々は、自分の救いを求めて、それぞれ信じるものに辿り着きます。救世主を求めている人は稀でしょう。救世主という大きな存在ではなく、自分を苦しみや悩みから救ってくれるものや、安堵させてくれるものを求めているのです。

 

 真理を求める者もいるでしょう。そういう人は、純粋な教えを求めます。悩みの罠から救い出されることを求める人は、力ある権威を求めます。そうして辿り着いた所が今いるところです。

 

 人々が口々に、救世主と呼ぶものが、その人にとっての救世主となり、キリストと呼ぶものが、その人の信じるキリストとなります。その人の信じる心が、其れと結びつくのです。人は、自分自身の選択によって、その道を歩みます。

 

 救世主とは、世から救い出してくれる人です。「主」ですから、人ではなく神です。一つ一つの宗教や教えが、世から救い出してくれるのでしょうか。この世から救い出して、何処へ連れて行ってくれるのでしょうか。

 

 世は、死人の集まりです。誰もが必ず、死を迎えます。世が始まって此の方、死を迎えないで生き続けている人は、誰もいません。

 

 人にとって死が、この世の終わりです。すでに死んで墓に入っている人は、「世が終わる」ことを心配しないでしょう。自分事に思わないことでしょう。墓に入っている死者は、もうこの世に存在していません。自分の存在しない世界での話です。

 

 「この世が終わる」ことを心配するのは、この世に生きている人々だからです。自分の存在する世がなくなることは、自分が存在できなくなることを意味しています。

 

 自分が死んだ後の、死後の世界のことを思って生きる人は、多くはありません。肉体の命の悩みの解決を願って、宗教に辿り着く人が多いのでしょう。この世の悩みを背負って、その荷物を下ろせる場所を捜しているのです。

 

 この重荷を楽にしてくれるものを、自分の荷を軽くし助けてくれた有難いものとして、尊びます。そのものによって、自分は救われたと思います。そのものの望みを叶えるために、そのものが要求することに応えます。解放の感謝を、献げ物という形にして表していきます。

 

 これは、神に造られた人の姿です。自分の外に救いを求め、それにすがります。他力本願は、人の本性です。創造主である神を知らない人も、自分のことを知る目に見えない存在を神とします。

 

 人は、神の御子のために、神によって造られました。もともと人は、御子とひとつになるように造られているのです。神の御子とひとつであることが、人の本性です。

 

 霊は死んでも、本性の機能は残っています。人類は、本性の機能を持つ死人です。

 

 教えによって救いを感じる者は、その教えを守ろうと努力します。所属する組織の中で救世主に祀り上げられているものを、救い主とします。しかし、彼らの救い主もまた、彼らと同じ人間です。神に造られた被造物です。死に繋がれた死人です。

 

 人の悩みの源が、神のことばから外れた原罪にあることを知りません。原罪の解決はできません。原罪を持ったまま、気休めの救いを与えるだけです。肉体の死の前で、何の力もありません。死への恐れが無いからと言って、死から逃れられるわけではありません。頼みとして来たものが気休めの救いであることを悟る霊は、死を前にして、恐怖におののきます。自分が正しい道を選択してなかったことに気づくからです。

 

 人類の苦悩は、生きることとともにあります。神のわからない者が、苦悩の根本の原因を突き詰めてもわかりません。神がわからない者にはわからないのです。神の存在を認めて、初めて、原罪がわかるのです。神から離れていることが、悩みの原因なのです。創造主から外れた被造物には、いのちがありません。生きていても死んでいるのです。

 

 恐れの源は罪です。罪が死を招いているのです。原罪が、死へと導きます。原罪が処罰されない限り、人は罪の奴隷です。罪は裁かれます。赦されない罪人は、永遠の死に捕まります。泣いても懇願しても、死から救い出す者は、死の世界にはいないのです。

 

 死から救い出すものは、いのちのある者の役目です。死なないいのちでなければなりません。死に打ち勝ついのちです。

 

 死から救い出す者が、まことの救世主です。死んだ者も、まことの救世主によって、甦ります。死は引き止めることができません。まことの救世主が、死を打ち砕かれたからです。

 

 神は、罪なき子羊の死をもって、原罪を処罰されました。十字架で流されたイエス・キリストの贖いの血によって、罪を赦されたのです。神が天から遣わされた神の子羊イエスは、死から甦り、原罪の呪いを砕かれました。原罪の呪いを砕いた神の子羊イエスを、贖い主と信じる者は誰でも、罪が赦されます。原罪の呪いは、その人から過ぎ越されます。罪が赦された者には、平安が訪れます。その平安に、御霊が住まわれます。

 

 人の究極の求めは、罪が赦されることです。そのことは、その人の霊が知っています。死の間際で、罪赦された人は、平安を得ます。罪が赦されていない者は、死の恐怖におののきます。

 

 まことの救世主は、死の恐怖から救い出す、神の御子イエス・キリストただひとりです。イエスを信じる者は、死んでも甦ることを知っています。神のみもとに帰り、神の子となって永遠に生きることを、神の御霊の証を持つその人の霊は知っているのです。