ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

まことの父を知る

 

 神はひとり子イエスを遣わして、地に住む人々に永遠のいのちを与えられました。旧約でいつも憤っておられた主が、怒りではなく、赦しを約束してくださったのです。父に忠実な子羊イエスによって、赦しを宣言されました。

 

 人は、イエス・キリストの犠牲の上に、神に赦されるのです。イエス・キリストの犠牲がなければ、人の罪は永遠に残ります。イエス・キリストの犠牲を知り、十字架の贖いを信じる者は、神に赦されます。

 

 イエス・キリストの犠牲を嘲笑い、十字架の死を侮る者の罪は、永遠に残ります。イエス・キリストはすべての人のために十字架にかかられました。しかし、すべての人がそれを信じるわけではありません。

 

 すでに、罪は赦されています。しかし、イエスを信じて、罪の赦しを受けて魂の救いを感謝する人もいれば、イエスを知ろうともせずに、自分の思うままに生きる人もいます。

 

 主の愛はすべての人に注がれています。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。(マタイ5:45)

 クリスチャンは、神が愛であると言います。神のひとり子(イエス・キリスト)が自分の罪の身代わりに神に罰せられ、自分は罪の裁きが過ぎ越されたことを知っているからです。

 

 神の御子イエス・キリストは、私たちが犯した罪の身代わりとなって処罰されて死に、私たちは永遠に生きる者とされたのです。

 

 永遠に生きる者となったからと言って、偉くなったわけではありません。信じない人と比べて良い点は、神のひとり子イエス・キリストを信じているということです。

 

 主を信じて罪が赦された者となったからと言って、すべてのことが赦されることにあぐらをかいてはなりません。高ぶってはいけません。高ぶる者は、落ちるのです。

 

 塵から造られ罪を犯したアダムの子孫は、すべて、罪ある者の子なのです。生まれたときから、そういう宿命です。アダムを恨んでも仕方のないことです。罪の子だからと言って、腐ってはなりません。

 

 イエスは、まことの父について教えられました。まことの父は、アダムを造られた父なる神です。アダムはまことの父(神)を離れ、偽りの父(悪魔)に従って、エデンの園を出たのです。アダムの子らは、偽りの父を父と思っていのちを繋いできました。

 

 しかし、真理が明らかになるときが来ました。闇の世に、まことの父の御子が来られたのです。彼が長子となって、神の子らを生むためです。偽りの父の嘘に騙されていたアダムの子らに、まことの父を知らせられました。まことの父に立ち返る者たちは、長子であるイエス・キリストの兄弟姉妹となるのです。

 

 イエス・キリストは、偽りの父から離れ、いのちの主であるまことの父のみもとに帰る、救いの福音を世に与えられたのです。その鍵を握るのが、「わたしが道であり、真理であり、いのちです。」と言われる、イエス・キリストです。

 

 イエス・キリストの贖いの血は、罪を赦し、信じる者を義とします。その義をないがしろにしてはいけません。赦されている自分を、イエスなしで愛されているかのように高ぶってはなりません。イエス・キリストゆえに、神に受け入れられているのです。

 

 神に愛されていることを知ることは大切ですが、イエス・キリストという、神が遣わされた仲介者によって、神とまみゆることが許されているのです。イエス・キリストの御名によって、まことの父の御前に出ることができます。

 

 神は、ひとり子イエスを愛しておられます。そして、ひとり子イエスを愛する者たちを愛されるのです。この愛は特別です。すべての人に注がれている太陽(神の愛)が、御国の実を結ばせられます。みなが太陽の恵みを受けているからと言って、みなが良い実を結ぶわけではありません。実を結ばない者もいます。

 

 主の愛の中に留まる者は、永遠の御国の実(愛と永遠のいのち)を結ぶのです。神の御霊がそうされます。神の愛にへりくだる者に、御霊は住まい、神の子として新しく生まれさせてキリストの兄弟姉妹としてくださるのです。

 

 キリストの兄弟姉妹となった者は、イエス・キリストとともに、神の御国を相続します。御霊によって、神の子に創造されるからです。

 

 イエス・キリストの愛を知ったなら、御霊によって、父の愛を知る者にされましょう。イエスが愛し、十字架の死まで従われた父です。すべての者の、まことの父なのです。