ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

御霊による信仰

 

 多くの国々で、おのおのの神が造られ、その神々を拝んでいます。人間は、人間よりも大きな力あるものの存在を感じ取っているからです。その大きな力に、人間の力ではどうにもならないことの望みをかけるのです。

 

 人々は、神を信じ、拠り頼むことを信仰と言います。しかし、彼らが寄り頼むのは偽りの神々であって、本当の神ではありません。目に見えない力を恐れ、神々を造り神として崇めることで、それらの怒りをなだめ、呪いを受けないようにしているだけです。それらの神々には約束がありません。神々自らの存在している目的がないからです。それらの神々を拝む者は、この世のわざわいが過ぎ越されることを望むだけです。

 

 あまりにも多くの神々がいて、本物とか偽物とかの概念もありません。その人が信じているものが神なのです。信じる心が神を造り、神と呼びます。

 

 このような偶像に満ちた世に、まことの神が遣わされた神の御子がいます。まことの神の御子が世に現れて、世の神々がまことの神でないことが明らかになりました。人間が造ったものは、神にはなり得ないのです。信心を受けても、神の力はありません。

 

 まことの神が明らかになると、他の神々は偽りであることが明白になりました。自分たちの神々が偽物とされれば、彼らは黙っていられません。自分たちの神こそが本物だと立ち上がります。

 

 誰も本物の神を求めていたわけではありません。自分の神を求めているのです。自分を守り、自分の敵を懲らしめてくれる神を必要としています。そのための神なのです。

 

 本物の神には、約束がありました。神の御子イエスを迎え入れ、主として尊び、彼のことばに聞き従う者に、永遠のいのちを与えて永遠の御国に迎え入れるという約束です。

 

 本物の神は、人間が造った神ではありません。人間を造られた神なのです。人間には、神が人間を造るという発想がありません。それで、「人を造った神」ということにつまづくのです。

 

 イエス・キリストはユダヤ人であって、他国人の私たちには関わりのないことだと思いがちです。しかし、神はおひとりで、神の御子もイエス・キリストただおひとりなのです。ただおひとりの神が、御自分のひとり子を人の姿にして、イスラエルに遣わされました。

 

 神は、キリスト(御自分のひとり子イエス)を生む民として、ユダヤ民族を造られたからです。神は、契約の神です。人と契約を結んで事を成されます。

 

 アブラハムと契約を結んだ神は、アブラハムの子孫ヤコブ(イスラエル)をその契約の相続者として選ばれました。そして、ヤコブの十二人の息子をイスラエル民族とされたのです。イスラエルは、まことの神に仕える民族であり、神のものです。彼らの忠実が、全人類を救うのです。

 神は約束どおり、神の子羊イエスをダビデ王の系図に、ベツレヘムで生誕させられました。その後、イエスは、ナザレで育ちます。

 

 イエスによって、天のことが明かされました。イエスは、父について、御国について、永遠のいのちについて、ユダヤ人に明かされました。この世の言葉ではありません。神のみことばを語られたのです。地に属する人々には理解できないものでした。

 

 ユダヤ人は、ユダヤ人の伝統としきたりの中で神に仕えて来ました。イエスの語る内容は、彼らの信仰を覆すようなものでした。律法を守ることの形骸化した信仰を明らかにして、生けるまことの神の礼拝ということを強調されました。

 

 イエスは、「霊とまことの礼拝」と言われました。ここに、神が喜ばれ受け入れられる信仰があるというのです。イエスは、父を仰ぎ、父のことばに聞き従い、父を証しました。父は生ける神です。偶像の神々とは違います。姿かたち、儀式ではなく、心を求められます。

 

 父を礼拝することを、イエスはご自分の歩みで示されました。常に祈り、父のことばを受け、父のみことばに聞き従う。また、父に求め、まことの父から受けるのです。

 

 イエスの語ることばはみな、父から与えられたことばでした。ご自分で計画し、ご自分の良いと思うことをし、ご自分でなさることはありませんでした。

 

 父のことばを語り、父のみわざをなし、父の栄光を現わしたのです。これが、神の御子イエスが人々に見せられた、「まことの信仰」です。

 

 まことの信仰は、神に覚えられ、神に称賛されるものです。永遠の御国でも讃えられる信仰です。キリストは、永遠に残るまことの信仰を、人々に教えられたのです。これは、人の信仰ではありません。人から生まれた信仰ではありません。

 

 人々が「信仰」と呼んでいたものは、偽りでした。まことの信仰は、神から出たものです。人が神に造られたように、信仰も神から出たものなのです。神が人を造り、信仰(キリストの信仰)も造られました。

 

 神は、御子イエスのしもべたちに、キリストの御霊を与え、キリストの御霊による信仰を与えられるのです。この御霊によって、人は、霊とまことの礼拝をする礼拝者、生ける神に仕える者とされるのです。

 

 御霊によらなければ、「イエスは主です。」と言うことができません。御霊によらなければ、「アバ、父。」と天の神を呼ぶことができません。

 

 イエス・キリストは、キリストの信仰をこの世に現わし、イエスを信じる者たちに、御霊の信仰を与えられるのです。

 

 御霊の信仰は、「イエスは呪われよ。」とは言いません。御霊の信仰は、イスラエルを呪いません。かえって、祝福します。御霊の信仰は、妬んだり、憎んだり、呪ったりはしません。御霊の信仰は、赦しと愛です。なぜなら、御霊の思いは、イエス・キリストの思いだからです。

 

 御霊による信仰によって、神の子らは整えられ、キリストのからだが建て上げられます。御霊による信仰によって、神の御国が訪れるのです。