ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

人に救いを与える神と救われたい人

 

 「御子(神が遣わされた救世主である、神の子羊イエス・キリスト)を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子(救世主)に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上に留まる。」(ヨハネ3:36)

 

 神はなぜ、救世主を世に遣わされたのでしょうか。

 人は生まれた時からみな、死と裁きが定まっており、また、世は滅ぶからです。

 「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている。」(へブル9:27)と聖書にあります。

 聖書に書かれた神のことばは、必ず成就するのです。

 

 「天が地よりも高いように、わたし(神)の道は、あなたがた(人)の道よりも高く、わたし(天の神)の思いは、あなたがたの思い(滅びゆく世、すなわち、地に属する人の思い)よりも高い。(創造主の思いは、被造物の思いよりも高いのです。)

 雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種まく者には種を与え、食べる物にはパンを与える。(神に命じられたならば、自然界の現象であってもすべてのものは神のことばの通りに働いて神の栄光を現わし、神の目的を果たします。)

 そのように、わたしの口から出る(神が発せられる)わたしのことば(神のことば)も、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。(神のことばは地に落ちることなく、必ず成就し、神の栄光を現わします。)(全能の神であられる天の神は)必ず、わたし(神)の望む事を成し遂げ、わたし(天の神)の言い送った事を成功させる。」(イザヤ55:9-11)

 

 死ぬことと死後にさばきを受けることとが定まっている「人」に、神は、「救世主」を遣わされました。

 救世主によらなければ、一度死ぬことと死後の裁きが定まっている人々を、滅びから救い出すことができないからです。

 

 神の口から出たことばは、地に落ちることがありません。必ず成就するのです。変えられない律法なのです。

 変えられない不動の律法を覆すために、神は、新しい律法を定められました。

 

 「神は、実に、そのひとり子をお与えになるほどに、世を愛された。それは御子(神の子羊イエス・キリスト)を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

 

 「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

 (人々に永遠のいのちを得させるために、天の神が世に遣わしてくださった「罪の贖いの子羊」であり、「救世主」である)御子を信じる者はさばかれない。(すなわち、信じる者は神によって罪に定められず、永遠のいのちを得て、天の御国にはいる。)

 (御子を)信じない者は神のひとり子の御名を信じなかった(神の子羊イエス・キリストを神が遣わされた救世主であることを信じなかった)ので、すでにさばかれている。(救世主を信じず、神の御救いを受け取らない彼らのためには、最初からの定めは覆されることがありません。世の初めから定まっていた死と裁きと滅びが、彼らの上から取り去られることはないからです。)」(ヨハネ3:18)

 

 「キリスト(肉体を持つ神のひとり子)は、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身を生贄として罪を取り除くために、来られたのです。」(へブル9:26)

 

 神の御救いは、世にあかしされています。「それ(イエス・キリスト)は救いではない。」と人が言ったところで、ほかの救いがあるわけではありません。

 

 永遠のいのちを得させる御救いは、天の神から出ています。ほかの救いなんてありません。

 ほかの救いは、天からのものではないので、天に帰ることができません。永遠のいのちを得させることができないのです。

 

 死に打ち勝つもの、とは何でしょう。死んでも甦るいのち、すなわち「永遠のいのち」です。

 永遠のいのちを得るためにはどうしたらよいのでしょう。神が遣わされた救世主イエス・キリストを信じ、神のひとり子による御救いを信じて、その信仰によって天の神と結びつくことです。

 

 私たちの信仰はどこにあるのでしょうか。私たちの心は何と結びついているのでしょうか。

 

 人の魂は、心が結ばれたものに引かれて行くのです。

 一度死ぬことと死後に裁きが定まっている地に属する罪人が、天の神と結びつく手立てはただ一つ。罪人を救うために、天の神御自身が世に遣わされた、救世主イエス・キリストと結びつくことです。

 

 そして、キリストが授けられるバプテスマ【聖霊のバプテスマ】を受けて、もうひとりの助け主【真理の御霊】がお与えになる事柄(思いに浮かぶイエスのことばや真理や霊的体験や霊的感覚)を吟味しながら、霊とまことをもって受け取り、心の糧、神の道を歩む信仰のともしびとして、御霊に聞き従うことです。

 

 永遠のいのちは、神の御霊のうちにあるからです。

 「イエス・キリストを信じます。」と告白しても、真理の御霊を疑ったり御霊に逆らうならば、永遠のいのちに敵対する者となるのです。

 

 天の神は、世を救うみわざを完成し、その道(神の御子イエスを「主キリスト」と告白する信仰の道)を世に示しておられます。隠されてはいません。

 

 しかし、永遠のいのちと天の御国にはいる御救いのあることを知った罪人たちは、神が用意された羊の門からはいらないで、ほかの道を設けて無理にでもはいろうとします。

 

 「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」(マタイ11:12)

 

 神によって、主の道を用意し(救いの道をお与えになるキリストを迎えるために民の心を備えさせ、罪の悔い改めによって民を整え)、主の道をまっすぐにする(民の心がキリストに向き、キリストが登場するのにふさわしい状態に整え、キリストへの信仰を神の民イスラエルに備えさせる)お役目に召されたバプテスマのヨハネは、ユダヤ人たちに教えを宣べました。

 

 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ3:2)

 

 天の御国(神のひとり子)が、地上のイスラエルに来られたのです。天の御国は、神の民の望みです。イスラエルの希望の光がやって来たのです。

 

 神のひとり子を迎えて、天の御国のあることを知った世は、だれもが天の御国にはいりたいと殺到します。

 

 ある人々は、バプテスマのヨハネがキリストだと思いました。バプテスマのヨハネは「私はキリストではありません。」と言明しました。

 人は、キリストでない者であっても、神の御国のことを語る者を、簡単にキリストだと思ってしまうようです。

 

 人は、矛盾だらけの世と、死と裁きが定められた世の摂理から救われたいのです。

 天の御国の福音、永遠のいのちの教えは、世界に広まり、人々は羊の門をほかの門に替えて、御救いを宣べました。ある人々は、「自分がキリストである。」と言います。

 

 天の御国は、激しく攻められています。私たちの教えこそがまことであり、天の御国にはいる正しい道である、と言って譲りません。激しく攻める者たちが、神の御子イエス・キリストの栄光を奪い取っています。

 

 イエスは言われます。

 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門からはいらないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。(彼らは、天の御国にはいる者ではなく、ただ様子を伺いに来て、天の御国の福音の内容をすりかえる偽り者であり、人々をまことの救世主キリストから引き離す者、すなわち荒らす者です。)

 しかし、門から入る者は、その羊の牧者です。(イエス・キリストの御名によって神に近づく教えを持つ者は、正しい牧者です。)

 (天の御国の)門番は彼(正しい牧者)のために(門を)開き、羊はその声(まことの羊飼いの声、すなわち、イエス・キリストのことば)を聞き分けます。」(ヨハネ10:1-3)

 

 世は荒らす者で満ちています。

 しかし、神は真実な心で御救いを求め、神のひとり子にへりくだる人々に、真理の御霊をお与えになって、天の御国にはいる狭い門へと導かれます。