神は、アブラハムに現われて、妻サライを祝福されました。神は、サライをサラと改め、国々の母とすることを語られました。
八十九歳のサラはすでに閉経しており、一度も子を宿すことのなかった不妊の女でした。しかし、神は、サラにひとりの男の子を与える、と仰せられたのでした。
神が仰せられたとおり、サラはアブラハムの子を宿し、九十歳で初子を産みました。アブラハムは、神が仰せられたとおり、その子をイサクと名づけました。
アブラハムにはそばめの子がいました。妻サラの女奴隷エジプトの女ハガルの子、イシュマエルです。アブラハムがまだ、アブラムの名を名乗り、神との契約のしるしの割礼を受けていない時に生まれた子でした。
神が約束された子(アブラハムの子孫)を待ちくたびれ、不信仰(不妊の私には子はできない)な妻サライの提案で、神の時を待たず、神の御力によらず、アブラムの自分自身の力で生んだ肉の子でした。
神はアブラハムに仰せられました。「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれる。」それで、イサクといっしょに跡取りとなるべきではないとされたイシュマエルは、その母エジプト女のハガルとともに、カナンの地から出され、荒野に行って住みました。
イサクが生まれるまでは、イシュマエルがアブラハムの契約(カナンの地の相続)と祝福(キリストの出現)を受け継ぐ者として育てられていました。
多くの召使に仕えられ、多くの奴隷を所有する父の跡取り息子でした。しかし、正妻サラの子、すなわち異母弟(サラの子イサク)が生まれると、立場は一変しました。
奴隷でさえ、カナンの地にある父アブラハムの家でパンを食べているのに、そばめの子イシュマエルは、父の養いを失い、カナンの地から出されてしまったのです。
カナンの地では、イサクがアブラハムのひとり子として成長しました。そして、父アブラハムの全財産を相続しました。
「アブラハムは自分の全財産をイサクに与えた。しかしアブラハムのそばめの子らには、アブラハムは贈り物を与え、彼の生存中に、彼らを東のほう、東方の国にやって、自分の子イサクから遠ざけた。」(創世記25:5,6)とあります。
イサクがアブラハムから受け継いだ神の契約と祝福を、イサクの子ヤコブが相続しました。
アブラハムの契約と祝福を相続したヤコブは、全世界に及ぶ大飢饉の際に、ヤコブの十二人の息子らの家族とともに、エジプトに下り、四百年の間、エジプト人の奴隷とされて、エジプトの地で増え広がりました。
神は、ヤコブの子孫の中からモーセを立てて、ヤコブの子らを奴隷の苦役で苦しめた奴隷の家エジプトから救い出し、荒野で、神と契約を結ぶ一つの民族とされました。神は、エジプトの地で一つの民族(ユダヤ民族)となっていたヤコブの子孫と契約を結び、彼らを神に聖別された神の民イスラエル(神の祭司の国民)とされたのです。
神は、イスラエルの父祖アブラハムとの契約により、イスラエルをカナンの地に導き入れて、カナンの地(現イスラエルの土地)をイスラエルにお与えになりました。
ヤコブがカナンの地を出てエジプトに下ってから、四百年経った(正確には、四百二十年と荒野での四十年を足して、四百六十年はゆうに経っていました。)カナンの地の住民は、悪が満ちて神に滅ぼされる悪い者(エモリ人の咎が満ちました。〈創世記15:16〉)となっていました。
神は、暴虐に満ちたカナンの地に住む住民をイスラエルの手で滅ぼし、その地をイスラエルにお与えになりました。神は、イスラエル自らがカナンの地を勝ち取るようにされたのです。
そして、イスラエルは勝ち取ったその地(カナンの地)に、イスラエル国家を建国しました。
神は、アブラハムの契約(土地の相続の約束)と祝福を、アブラハムの子孫イスラエルに実現されました。
神は、アブラハムに与えると約束されたカナンの地に住むアブラハムの子孫イスラエルに、神の子羊イエス(約束のキリスト)を遣わされました。
神の祭司の国民イスラエルが神の子羊イエスを屠り、罪の贖いのわざは成し遂げられました。イスラエルは、世(あらゆる国、あらゆる民族、あらゆる国語の人々)の罪を取り除き、死と滅びから救い出し、永遠のいのちを得させるキリスト(救世主イエス・キリスト)を世に現わしました。
アブラハムに与えられた神の祝福の約束は、ユダヤ人の中から出た救世主(神の御子イエス・キリスト)によって実現しました。
あらゆる国、あらゆる民族、あらゆる国語の人々は、ユダヤ人から出た救世主イエス・キリストを信じるならば、死と滅びから解放されるのです。
この福音は、ユダヤ人の残りの者(イエス・キリストの弟子)たちによって、世界中に宣べ伝えられました。ユダヤ人は、世界中の人々に真理の光を照らし、永遠のいのちの御救い(キリストの福音)を知らせる祝福の民、すなわち神の民なのです。
しかし、イエス・キリストを十字架につけたユダヤ人たちは、神の御計画を悟らず、自分たちの罪を認めることなく、悔い改めることがありませんでした。
アブラハムの信仰を受け継いだはずのイスラエルが、アブラハムの神に背き、神が遣わされた神のひとり子イエスを信じませんでした。アブラハムの子孫から現われると約束されていたキリスト(神のひとり子)がイスラエルに来られ、ユダヤ人の間を歩まれたのに、ユダヤ人たちは、神の御子イエスを嘲り、ののしり、辱しめを与えました。
十字架で死なれたナザレのイエスを、神の聖霊が墓から甦らせて、ナザレのイエスが神の御子キリストであることを公に示されたのに、それでもなお、ユダヤ人たちは心頑なにして、神の御子イエス・キリストを信じることなく、イエスの弟子たちを迫害し、イスラエルから締め出しました。
神は、背信の民イスラエルを怒り、彼らの先祖がカナンの住民たちから勝ち取って神から受けたイスラエルの地からユダヤ人たちを散らし、諸外国に離散させられました。その期間は、千八百年以上に及びました。
神は、イスラエルがカナンの地の住民から勝ち取ったカナンの地を、イサクの子孫ヤコブ(イスラエル)の所有の地とされました。
しかし、ローマ帝国によってユダヤ人が離散すると、その地はパレスチナと呼ばれるようになりました。住民のいなくなったその地(わずかなユダヤ人は残っていました。)は廃墟となり、管理者のユダヤ人を失ったその地は荒れ果てた不毛の地となりました。相続者のユダヤ人が留守となったパレスチナの地に、近隣国のアラブ人たちが移り住みました。
神は、イスラエルが勝ち取った地を、決して他民族の手に渡ることのないように、また、その地に国が建てられることのないように守られました。それで、その地には国は建てられませんでした。
千八百年代には、聖書の約束のことばを信じるユダヤ人たちが帰還し始めました。神が与えると仰せられた先祖の地に帰還したのです。
神が守られた地(他の国民のものとはされなかったユダヤ人の地)に、神は、神を求める背信のイスラエルを帰し、1948年に、イスラエル国家を建国されたのです。
国は造られなかったものの、パレスチナの地にはアラブ人たちが住んでいました。パレスチナの周囲には、イシュマエルの子孫(アラブ人)の国が幾つもあります。現在、神がアブラハムに約束されたカナンの地の80~90%の土地は、イシュマエルの子孫のものとなっているのです。
ユダヤ人の国であることを認め、イスラエルの国の中に入ったアラブ人たちはユダヤ人と平和を保っています。
しかし、神がユダヤ人のために取って置かれた、キリスト時代ユダヤ人の住む土地(ローマ帝国のユダヤ属州)であった地に、アラブ人の国を造ろうとするパレスチナのアラブ人たちの中には、ユダヤ人に攻撃的で争いを引き起こす人々がいます。
今の状況をイサク(ユダヤ民族の父)とイシュマエル(アラブ民族の父)の父祖であるアブラハムが見たら、どう思うでしょうか。
アブラハムは生前、このようなことにならないようにと、イシュマエルをカナンの地から出して、イサクに全財産を与え、そばめの子らを東のほうにやって、アブラハムの契約と祝福を受け継ぐアブラハムの子孫【アブラハムとサラのひとり子イサク】を守ったのに、こんなことになっているとは。
イシュマエルは、正式には、神との契約を持つアブラハムの子孫ではなく、アブラム(契約前の割礼のないアブラム)の肉の子孫なのです。
アブラハムは、アブラハムのひとりの子孫(キリスト・イエス)によって、多くの信仰の子孫を得ました。信仰の子孫は、アブラハム、イサク、ヤコブの血肉の子孫とは異なるものです。
イエス・キリストを信じるキリスト者は、アブラハムの神(イエス・キリストの父なる神)を信じる信仰者であり、アブラハムの信仰を受け継ぐ信仰の子孫なのです。
神が「アブラハムの子孫」と呼ばれる子孫は、「血肉の子孫」であるイサクの子ヤコブ(イスラエル)であり、アブラハムの神(イエス・キリストの父)と神のひとり子イエス・キリストを信じる「信仰の子孫」であるキリスト者たちです。
しかし、キリスト者の中にも、ユダヤ人に敵対する人々がいます。アブラハムの子孫と自称するイシュマエルの子孫(アラブ人)に味方して、神御自身がアブラハムの契約の相続者としてお定めになったアブラハムの子孫イスラエルを否定し、アブラハムの契約と祝福(ユダヤ民族の民族的な救い)を取り除こうとするのです。
彼らは、神の契約がイスラエル(ユダヤ民族)に相続されるのを信じず、神に反逆しています。そして、アブラハムが正妻サラのひとり子イサク(イサクの子孫イスラエル)に相続したカナンの地を、そばめの子イシュマエルの子孫(アラブ人)に与えるように要求するのです。
アブラハムはこの状況を見るならば、イシュマエルを生んだことを悔やむことでしょう。ノアの時代、神が地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められたのと同じです。(創世記6:6)
神は、人を造ったことを残念に思われ、箱舟に入るもの(ノアの家族)を残して、地上にあるものをすべて滅ぼされました。
背信のユダヤ人が神に立ち返り、そして、神の定めにへりくだらないアブラムの子孫がすべて悪い者となったとき(神の民イスラエルの敵となるとき)、イスラエルの王、すなわち神の子羊イエス・キリスト「万軍の主」が立ち上がり、地上に来られて、イスラエルの敵をみな、滅ぼし尽くされます。
イスラエルが滅ぼすのではありません。イスラエルの王がことごとく滅ぼされます。
ノアの時代、地上のものを滅ぼされた神が惜しまれなかったように、その時には、アブラハムも惜しむことがないでしょう。アブラハムは、神の側にいて、神の成さることを見て、神の真実なることを讃えることでしょう。
イスラエルは、厳格にイスラエルの神に仕えようとする正統派ユダヤ教徒と、旧約聖書に基づく教え(モーセの律法)の下にいるユダヤ教徒と、イスラエルの神の御子キリスト・イエスを主とするユダヤ人と、イスラエルの神の律法の外で自由に振る舞う世俗的なユダヤ人など、多種多様なユダヤ人で構成されています。
律法の外で自由奔放に生きるユダヤ人が、神に思いを向けることはイスラエルにとって、重要なことです。なぜなら、ユダヤ人の国を建国してくださったのは、アブラハムの約束に忠実なイスラエルの神だからです。
イスラエルの神がユダヤ人たちにユダヤ人の国をお与えになったのに、イスラエルの神を礼拝する集いに加わらないとはどうしたことでしょう。
世界の国々で迫害されていたユダヤ人たちを先祖の地に集め、保護し、ユダヤ人の国を与え、イスラエル国民としてくださった先祖の神を恐れる者となるとき、神の懲らしめは去り、神はイスラエルに神の平安を与えてくださるのです。
アブラハムの子孫イスラエルが、アブラハムの相続地に住み、アブラハムの契約の神を彼らの神とするとき、イスラエルの神がイスラエルを守られます。
イスラエルの歴史を見れば、不信仰の民に神の怒りが下り、神御自身が敵を送っておられます。
神の民イスラエルの中心には神がいなければなりません。政治家が中心のこの世の国とは違うのです。父祖アブラハムが信じた神、イスラエルが契約を結ぶ神にへりくだらなければならないのです。