ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

神のことばに帰ろう

 

 神は、ことばによって、万物を造られ、最後に、土の塵から人のかたちを造られました。その土の人の中に神の息が吹き入れられて、人は生きる者となりました。

 

 人は神に造られ、神のことばの中にありました。これが人の始まりです。

 宇宙から来たのではありません。人がエデンの園を追放されて置かれた世には、神の子と呼ばれる人間たちがすでにいたようです。

 

 神の子と呼ばれる人々は、宇宙から来たのかも知れません。天使長ルシファーとともに天から追放された堕天使たちでしょう。

 天から追放された天使たちは、おびただしい数がいたことでしょう。すべてが悪霊になったのではなく、悪魔と化した元天使長から逃れた天使たちの方が多いように思います。

 

 宇宙人と呼んでいる生命体は、天から追放された天使たちの新しい姿だと思います。

 しかし、土から造られた人は、アダムとエバ、そして、その子孫です。

 

 堕天使たちは、以前は神のもとにいましたが、天から追放されて以降は闇の生命体です。仕えていたリーダーの天使長が、もうひとりの神のように闇の中で権力を持ち、まことの神のもとに帰ることを許しません。

 

 もしそのようなことがあるのならば、悪魔は神を訴えることでしょう。正義の神が罪あるもの(堕天使)をさばかれないのですか。聖なる神が罪をうやむやにされるのですか。愛なる神がともに天から追放された堕天使を受け入れ悪魔と悪霊どもをさばくというような不公平なことをされるのですか。

 

 神は、神のことばのうちにあるものを義とされます。

 神は、土の塵から造られた卑しいもの(人)を造り、生きものとされました。いのちあるものとされたのです。いのちは神の息です。

 

 御使いたちよりも劣るものです。霊的な存在の天使たちよりも低いものたちです。人の機能は、天使とは違います。

 堕天使たちが、人を管理者として認め、人の下になることができるのでしょうか。神の試みです。へりくだりが求められます。

 

 彼らを統率していた天使長は、麗しく光り輝く力ある天使長でした。彼らは、この麗しい天使長の一挙手一投足を見ていたのです。天使長に統率されることは、彼らの誉れであったことでしょう。

 

 天使長ルシファーは、自分の美しさに高ぶり、神のひとり子よりも自分の方が力があると思ったのでしょう。神のひとり子よりも高くなりたい、主権者になりたい、と自分を高くするものでした。

 

 神のひとり子よりも天使長のほうが主権者にふさわしいのではないか、と天使長の野心に協力的で、自分たちの天使長が天で力ある者になってもらいたいと賛同する天使たちが、天使長に率いられて天から出たのではないのかと思います。

 すなわち、堕天使みずからが神のひとり子に反逆したわけではないのですが、神のひとり子を妬み憎んでいる天使長に従うことで間接的に、神のひとり子に敵対したのです。

 

 神は、悪霊にならなかった堕天使たちを正しい者とするための試みとして、神のことばとともにいる土から造られた人にへりくだることができるのかを調べられる御計画だったのではないのかと思います。

 

 土から造られた卑しい人とともにおられる神のひとり子を蔑むでしょうか。本当に改心するならば、天使ではなく土の人を支配される神のことば(神のひとり子)を蔑むことはないでしょう。

 

 神のひとり子という栄光を、ごろつきのような土の人によって、軽く見るでしょうか。もしくは、神のひとり子の主権を喜び、神のひとり子を崇めて、神のひとり子ゆえに、土の人をも尊ぶことができるでしょうか。

 

 堕天使たちが天に帰るには、神のひとり子に仕える正しい心を持たなければなりません。彼らの心から、天使長の侮りの影を払拭し、本当に心から神のひとり子を神(父なる神)のように慕い仕えなければなりません。

 

 神は、彼らのうちにある、天使長の高ぶりの影響を、土の人の管理の下になることができるかどうかで試されるおつもりだったのかも知れません。

 

 神は、人に言われました。

 「生めよ。増えよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」(創世記1:28)

 

 土の人は、地の支配者でした。天の支配者を神のひとり子に定めておられる神は、地の支配を土の人にお与えになられたのです。

 

 神は、人を、いのちの木を生やしたエデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせました。

 

 「神である主は、人に命じて仰せられた。『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。

 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:16,17)

 

 善悪の知識を知る木の実は、神よりも高くなろうとする罪の食べ物でした。悪魔の性質に変えてしまう、悪魔の食べ物でした。

 

 神の命令は、人を神にへりくだらせるためというよりも、神のことば(神のひとり子)とひとつであることを命じられたのかも知れません。

 人は神のことばのうちにありました。神のことばの外に出たことがありませんでした。高ぶりも不従順も知りませんでした。

 

 悪魔のことばは、何と言ったでしょうか。

 「あなたがたは(善悪を知る知識の木の実を食べても)決して死にません。 

 あなたがたがそれ(善悪を知る知識の木の実)を食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のように(自分自身で何でも自由にできる)ようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(創世記3:4,5)

 

 悪魔は、人に、神のことばとひとつであることの不自由を伝え、神のひとり子に主権があるのではないことを吹聴したかったのでしょう。神の御子も天使も人もみな、神の創造物であって、立場に何の相違もなく、神のひとり子も、人も同等である。私たちはみな、創造者であると、目からうろこの偽りの真理を植え付けました。

 

 土の人を、闇に引き込めば、堕天使たちの救いの計画はなくなります。神のひとり子は、天使たちの裏切りを抱えたまま、その主権(父なる神がひとり子に定めておられる主権の相続)を不安定にしておきたいのでしょう。

 

 人(アダムとエバ)は、悪魔のことばを聞いて納得すると、神のことばから外れました。神のことばとひとつであった土の人は、神の命令を離れました。

 

 神のことばはいのちと光。悪魔のことばは、背きと死と闇。

 神のことばから外れると、人は悪魔のことばと結ばれました。すなわち、いのちを失い、死を得たのです。

 

 神は、死を選んだ人が、罪あるままで永遠に生きないようにと、エデンの園から追放し、いのちの木を閉ざされました。

 

 神である主は仰せられました。

 「見よ。人はわれわれ(御父、御子、聖霊の神格者)のひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼(人)が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」(創世記3:22)

 

 神のことばとひとつであったとき、人の「主」は神格者であられる神御自身でした。

 神のことばから離れると、人の「主」は神でないものとなったのです。人の主は、悪魔であり、偽りの霊であり、堕天使(宇宙人)であり、人であり、自分であり、獣であり、偶像になったのです。

 

 神のことばは、生かす御霊であり、真理ですが、それ以外のことばは、偽りであり、永遠のいのちから引き離します。

 神のことばはいのちであり、神のことばから外れることはいのちから外れること、すなわち、死と闇なのです。

 

 神は、人類の初穂であるユダヤ民族に聖書を与え、神のことばを与えられています。神のことばから外れ、死と滅びに定められて闇をさまよう人類に、「いのちを得よ。」と、神のことば(神のひとり子イエス・キリスト)を与えてくださいました。

 

 「(死と滅びに定められ、必ず、永遠の死へと連れて行く)世に勝つ者とはだれでしょう。(神の子羊)イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」(ヨハネ第一5:5)

 

 神のことばから外れて悪魔の手に落ち、死と滅びが定められた私たちは、神のことばの中にいません。

 

 しかし、神のことばが人の子の姿となって、この世に現われてくださいました。神のひとり子が、地上に遣わされたのです。

 十字架で罪の贖いの血を流されたイエス・キリストを、神の御子と信じる者は、神のことばに帰る者です。

 

 イエスを神の御子と告白する者は、神のひとり子を妬み敵対して神のひとり子が主権者であることを否定する悪魔に逆らう者となり、悪魔に敵対する者となるのです。

 

 人は創造主ではありません。神の御子イエス・キリストの御霊を持つ人は、神のひとり子と等しくなろうとはしません。神のひとり子は、永遠のいのちを得させる唯一のキリストであって、私たちのかしらなのです。神のことばのうちに入った私たちは、私たちのかしらよりも高くなろうとはしません。私たちの主は、十字架にかかられた神の子羊イエス・キリストです。

 

 神のことばから外れていのちを失った人は、神のことば(神のひとり子イエス・キリスト)を信じて、キリストの生かす御霊により、キリストの兄弟、永遠に生きる神の子どもとされるのです。

 

 神のことばに帰ること。それが、喜びと平安と本当の自由、永遠の安息なのです。