ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

日本人が無宗教である理由

 

 日本人は、子どもが生まれると、誕生約一か月後に、近所の神社(氏神)にお宮参りに連れて行きます。

 赤ちゃんの無事出産の報告と、子どもの健やかな成長を願う初参りは、日本の伝統行事です。

 

 また、お寺の近くに住む人々は、毎年四月八日のお釈迦さんの誕生日を祝う花祭りに参加して、甘茶をいただく風習があります。

 

 生後一か月の初参りは神社であり、四月八日の花祭りはお寺です。神社は神道のもの、お寺は仏教のもの。しかし、日本人にとっては、どちらも私たち日本人を守ってくれる信仰の対象です。

 

 11月15日には、子どもの長寿と幸福を祈願して、数え年で男の子は3歳と5歳、女の子は3歳と7歳に七五三の伝統の着物を着て、神社・お寺などで七五三詣でをします。

 

 年末大晦日には、古いものを捨て新しいものに移る新しい年を迎えるに当たって108あるとされる煩悩を払い、心穏やかに新年を迎えようと、お寺で108回の鐘をつく除夜の鐘がゴーンゴーンと鳴ります。除夜の鐘は日本の年中行事です。

 

 新年を迎えると、神社に初詣に出掛けます。お正月にいただくおせち料理も雑煮も、新しい年に年神様を迎えその年の豊作や家内安全を祈願する意味を持っているそうです。

 

 神社は神道で、お寺は仏教です。しかし、日本人には、その区別がつかないほどに、どちらも日本の伝統行事に組み込まれており、どちらも日本人の心の拠り所になるものなのです。

 

 ですから、日本人はお寺にも神社にもお参りします。そのことに疑問を持つこともなく、何の矛盾も感じないまま成長します。神社もお寺も敵対するものではなく、日本人の心の中で和合するものだからです。

 

 新しい歴史においては、日本人は、12月25日に各家庭でクリスマスを祝うようになりました。クリスマスがキリスト教のものということを知らずに、プレゼントがもらえるサンタさんの日との認識で、始まりました。

 

 次第に、クリスマスはキリスト教会の行事であって、キリスト教で信じられているイエス・キリストが生まれた日でキリスト降誕を祝う日らしいという事が理解されるようになってきました。

 クリスマスの本当の意味を知らずに、日本の伝統行事のように、日本で祝われる日となりました。

 

 このように、日本人は、宗教に無頓着なものです。日本人は、神社もお寺もキリスト教会の伝統行事であるクリスマスも、宗教として信じているわけではないからです。

 

 日本人が宗教と聞くと、新興宗教の怪しげな印象を持ち、警戒します。宗教とは関わりを持ちたくないのです。宗教は、何かの教義に縛られるような不自由なイメージがあります。

 

 もともと日本人の精神は、自然の中に働く目に見えぬものと繋がっていたようです。

 人間の限界を超えたところの大いなるものを恐れていました。日本人の崇めるのは、そのような大いなるものなのです。

 

 そして、精神的に自然と繋がっていた日本人は、精神的に響くものでなければ応答しなかったのではないのかと思います。霊で感じ取り、魂で応答する信仰の天才だったのだと思います。日本人の生まれつき備わった天分なのでしょう。

 

 しかし、神道系の神事「日月神事」には、大和魂(古来の日本人に備わっていた、自然や大いなるもの、また他者と和合し調和する精神)を持つ日本人は半分もいないとありますから、現在の日本人の多くはこの感性を持っていないということになります。

 

 しかし、日本人の四割くらいは持っているのでしょう。彼らの魂は、無意識に自然環境の中で魂に響くものを知っています。神の霊に触れているのです。文字の言葉にはない、心のことばを知っています。

 大和魂を失っていない日本人のうちには、言霊を恐れた昔の日本人のような霊性が眠っているのでしょう。

 

 彼らに、宗教は必要ありません。本来の日本人の魂は、自然と繋がっていました。自然の中で働く目に見えない大いなるものを意識し、和しているのです。日本人には、きよらかな良きものと和することを欲するDNAがあるのでしょう。しかし、それが神であるということを、日本人は忘れてしまっています。それゆえ、自然に宿る目に見えない力に恐れを感じながら、その力の源を神と表現することに抵抗があります。

 

 なぜならば、大和魂を持たない日本人の方が多いのですから。「神」と表現すると、宗教的に感じ、抵抗があるのでしょう。

 かつては、素直に、神を恐れ、神仏にすがっていた日本人も、文明開化によって、それは迷信的な事と一笑に付す傾向が現われたからです。外国の霊にやられてしまいましたね。

 

 日本人は、信仰の心を持つ、信仰の天才です。霊と魂で目に見えない力を捉える霊的な民族です。

 日本人は、自然の驚異に神の怒りを恐れ、自然のもたらす恵みに神の慈しみを感じてきたのです。日本人は、神の愛を知る民族だったのでしょう。

 

 神に愛されているのに、どうして、宗教を必要とするのでしょうか。日本人を守り、包んでくださる大いなる力をすでに持っているのに、ほかに助けを求める必要はないのです。

 

 昔の日本人の心の中には、ひとりひとりのうちにすがる神がいました。人間に教えられた宗教の神ではありません。

 

 天の神に遣わされた神の御子イエス・キリストは、律法の下にいるユダヤ教徒を救われましたか?

 イエスは、ユダヤ教の指導者たちを、「まむしのすえども。」と叱責されました。「おまえたち蛇ども(エバを騙し人をそそのかしてエデンの園から人を追放させた蛇と同じように、神の民ユダヤ人たちを惑わして罪を犯させる憎むべき者ども)、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナ(神が悪魔の裁きのために用意された永遠の火の池、すなわち地獄)の刑罰をどうしてのがれよう。」(マタイ23:33)

 

 キリスト教徒は、たとい神と契約を結んだユダヤ民族であっても、神が遣わされた救世主(ユダヤ人の神のひとり子イエス・キリスト)によらなければ、天の御国にはいることができないことを知っています。

 それゆえ、キリスト教会は長い間、「神の御子イエス・キリストを十字架につけ、神が遣わされた救い主を信じなかったユダヤ人は神に捨てられた。イエス・キリストを救い主と信じるキリスト教徒が本当の神の民である。」と置換神学を教え、ユダヤ人を迫害しました。

 

 死から復活されたイエス・キリストは、聖霊のバプテスマを授ける権威を持つキリストです。使徒やイエスの弟子たちはみな、イエスの約束を信じて、エルサレムの一つ所に集まって、約束の聖霊が与えられるのを持ち臨んでいると、みな御霊を受けて、聖霊に満たされました。

 

 御霊を受けた弟子たちは、もはや以前のようにイエスのことばの意味を理解出来ない者ではなく、真理の御霊によって教えられ、また、御霊に歩みを支えられ、大胆に福音を語り、神のことばを教える教師となったのです。

 

 神は、神からのことばを聞き神のことばに聞き従うことを土台としない、人間の教えの宗教がお嫌いです。

 そこに神の居場所はないのです。人は神に聞かず、自分たちで考え、自分たちの力で事を成し、それを神のための信仰だと思っているからです。

 

 日本人も宗教が嫌いです。神と同じです。古来からの日本人は、霊によって目に見えない大いなる存在(神)を感じるのです。

 神の存在を霊で感じる日本人は、実は、神に愛されていることを知っている者なのです。

 

 理屈はいりません。何かわからないけど、目に見えない優しい慈しみと愛を受け取っている日本人に、宗教は必要ないのです。

 

 キリストの手の中にあるのは、ユダヤ教の教会(シナゴーグ)でもなく、キリスト教会でもありません。キリストは、人間の教えを教えとする宗教を必要としておられるのではありません。

 キリストの手の中にあるのは、真理の御霊によって生まれた七つの御霊の教会なのです。

 

 神道の中にも、仏教の中にも、キリスト教の中にも、霊で捉える大和魂を持つ日本人がおられます。

 神は、そのような人々に真理の御霊を注ぎ、御霊によって神を知る新しい人に創造して、御霊の教会を完成されるのでしょう。

 

 御霊の教会は、天の御国にはいる教会です。宗教の古い教え(肉の教え)を脱いで、新しい真理の御霊の教えによって、キリストの御霊(御霊の教え)を着る新しい人、すなわち永遠のいのちを得る霊的な教会です。御霊の教会は宗教とは関わりがありません。

 

 宗教の影響のない日本人だから、世界を神に導く救世主と言われる、終わりの時代に神の働きに仕える働き人が、日本から立てられるのでしょう。