携挙とは、神に喜ばれた人々が死を体験することなく、生きたまま天に引き上げられることを言います。
携挙は、異邦人の時の終わりのしるしでもあります。
携挙を信じていないクリスチャンの間では、「聖書のどの箇所に、携挙という語句が出て来るのか。聖書に書かれていないことを信じるのは異端だ。」との意見もあります。
私が思うには、携挙の信仰は御霊の携挙の教会に属していない人々には隠されたものである、ということです。
携挙を信じない人が間違っているのではなく、携挙の教会に属していない人にはわからない、ということです。
パウロは言います。
「眠った人々(死んだ聖徒たち)のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない(世の)人々のように悲しみに沈むことのないためです。
私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々(神の子羊イエス・キリストの御名のゆえに迫害され殉教した聖徒たち)をイエスといっしょに連れて来られるはずです。(イエス・キリストを信じる信仰ゆえに殺されることを恐れてはなりません。殉教者たちは彼らの主イエス・キリストと同様に死から甦って復活し、御霊がお与えになる新しい霊のからだで、キリストの再臨のときに、神は彼らをイエス・キリストといっしょに地上に連れて来られるのです。)
(これはパウロや使徒たちの私的解釈ではありません。)私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たち(神の御子イエスを主キリストと信じ、御霊に忠実に仕える主のしもべたち)が、死んでいる人々(イエス・キリストの御名ゆえに悪魔と戦った殉教者の魂)に優先するようなことは決してありません。
主(イエス・キリスト)は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者(殉教者の魂)が、まず初めに甦り、次に、生き残っている私たち(携挙の教会に属する人々)が、たちまち彼ら(殉教者の魂)といっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは(殉教者の魂も携挙される魂も)、いつまでも主とともにいることになります。」(テサロニケ第一4:13-17)
この箇所では、キリストの空中再臨のことが書かれています。
地上に降り立つ地上再臨とは異なる、キリストの再臨です。キリストの空中再臨は、異邦人の時の完成時に起こります。
地上から、イエス・キリストの御霊に忠実なしもべたちを引き上げ、患難期にはいる前に、反キリストが出現して闇に向かう世から救い出してくださるのです。
キリストに空中で迎えられるのは、神の国のために一粒の麦となった殉教者たちの魂と、神の御霊とともに歩み御霊に従順で神に喜ばれる信仰のしもべたちです。
大水で世を一層されたノアの時代よりも以前に、神は、ノアの祖先であるエノクを生きたまま天に移されています。
「エノクは六十五年生きて、メトシェラを生んだ。エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。
エノクの一生は三百六十五年であった。エノクは神とともに歩んだ。神が彼(エノク)を取られたので、彼はいなくなった。」(創世記5:21-24)
また、へブル書にも記録があります。
「信仰によって、エノクは死を見ることのないように(生きたまま天に)移されました。神に移されて、見えなくなりました。(天に)移される前に、彼(エノク)は神に喜ばれていることが、あかしされていました。
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。
神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」(へブル11:5,6)
御霊の携挙の教会に属する人々には、神は、エノクの信仰をお与えになっておられます。
携挙の教会に属さないクリスチャンたちが、「携挙なんてない。生きたまま天に引き上げられるなんて、天女でもあるまいし⋯そんなことは起こらない。そんな突拍子もない事を信じるなんて危険だよ。異端の教えを信じてはいけない。」と忠告して来るかも知れません。
しかし、携挙は実際に起こるのです。エノクの後には、イスラエルの預言者エリヤが、生きたまま天に上げられました。
エノクに起こった事も、エリヤに起こった事も、聖書に書かれた、れっきとした事実なのです。
神は、御霊の携挙の教会に属する人々に、携挙の信仰を与えるために、エノクとエリヤを証言者としてお立てになっておられます。
神が忠実なしもべたちの中から、どんな状況の中でも神のみことばを握って忍耐し、神への信仰を保ち続ける神に喜ばれる人々を選んで、彼らを生きたまま天に引き上げてくださるのです。
神は約束しておられます。
「あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたし(キリスト)も、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。(ユダヤ人の時に定めた患難期が始まる前に、あなたを守って天に移そう。)
わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。(携挙の信仰を持ち続け、御霊に従い続けなさい。)」(黙示録3:10,11)
御霊の教会は、信仰によって勝利する者の教会です。携挙の教会に属する人々は、周囲に飛び交う不信仰のことばや、疑いや中傷、嘲りや仲間外れに屈してはなりません。
自分の持っている信仰に忠実でありましょう。
また、携挙を信じていない人々に、軽々しく自分に与えられている神の啓示や約束を話す誘惑に打ち勝ちましょう。
霊の事は御霊によらなければ理解することができません。聞く人が疑うのを見て、こちらの信仰の土台が揺らいではなりません。自分に与えられた信仰を自分の心のうちで大切にし、また守りましょう。
周囲の人からは、変な人と思われがちでしょう。でも、いいのです。神がご覧になっておられることを意識しましょう。
思いを常に神に向けましょう。そして、御霊の声を聞くこと、また、御霊がお与えになる思いに忠実に歩みましょう。
携挙の教会に属する人々は、霊的な信仰の持ち主でしょう。キリスト教会でも、ユダヤ教のシナゴーグでも、神道の神社でも、仏教のお寺でもなく、地上の宗教ではない天上の信仰を得ている人々です。
生きたまま天に上げられる人々は、生かす御霊とともにあり、心の声(御霊の導き)を知り日々神とともにいる人、生活が信仰によって形つくられている生きた信仰の人でしょう。
おそらく、今、祈りへと導かれて、心の浮かぶ場所に行って、示される祈りをする活動にはいっておられるのではないでしょうか。
心に浮かぶことを見過ごさずに大切にして、霊的感覚を養い、御霊の導きに敏感になって、御霊の御思いを忠実に成し遂げられますように。
メシアニック・ジューの人々は、「自分たちはみな殉教する。」と言っておられます。そのことは正しいのです。彼らもまた、彼らの属する殉教の教会の、御霊の示しを受け取っているのです。
それぞれ、自分の属する教会の御使いに導かれているのです。