ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

永遠への思い

 

 知恵者は言います。

 「私は神が人の子らに与えて労苦させる仕事を見た。

 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、葉とは、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」(伝道者3:10,11)

 

 口語訳で見ますと、

 「私は神が人の子らに与えて、骨折らせられる仕事を見た。神のなされることはみなその時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終わりまで見きわめることはできない。」(伝道者3:10,11)

 

 人は生きていくのに労苦します。

 それは、神が罪を犯したアダムに次のように誓われたからです。

 「あなたが、妻(エバ)の声に聞き従い、食べてはならないとわたし(神)が命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえに(神に「食べてはならない。善悪を知る知識の実を取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」と命じられていた禁断の木の実を、神のことばに背いて食べてしまったアダムの背きの罪ゆえに、また、エデンの園の管理者アダムの罪はエデンの園の主権者であられる神の秩序を乱し、主権者の名に泥を塗って汚してしまった不従順の罪ゆえに)呪われてしまった。

 (罪で汚れた人の耕す土地もまた汚れ、呪いとなったゆえに、)あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。(アダムは神のことばに聞き従わず、神のことばを軽んじました。その結果、神と自分を同等のものとする自我を持つ者となり、主権者であられる神を主権者とする正しい秩序を乱しました。エデンの園の管理者アダムが秩序を乱したので、エデンの園の被造物もまた、権威に背くものとなり、それぞれが自分勝手に生きるようになったのです。正しい秩序のもとでは主権者であられる神の守りを受け、神の養いの中でみなが安息していました。秩序を乱す者は、エデンの園から追放され、自分で生きて行かなければならないのです。)

 土地はあなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。(もはや、土地もあなたに反発して悪いものを生えさせ、神のことばに背いたあなたは食物を得るにも骨折る者となった。人が神に逆らったように、土地もまた他の被造物もあなたに逆らい、あなたは苦労する。)

 あなたは、顔に汗を流して糧を得(人は苦しい労働によって食糧を得なければならない。)、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこ(土の塵)から取られたのだから。あなた(人)は塵だから、塵に帰らなければならない。」(創世記3:17-19)

 

 人は塵から造られた者であることを、肉体の死によって、思い知らされます。

 人は、神にいのちの息を吹き込まれて、生きものとなっているだけで、いのちは外から授かったものであることは、みな同じです。自我を持ちながら、自分はどこから来てどこへ行くのかも知りません。

 ただ、人は必ず死を迎えることは知っています。しかし、生きている時に死を意識することはほとんどありません。(いつかは死ぬのだろう。)と思っていながら、身近な人の死によって、(人は、本当に死ぬのだ。)と呆然とするのです。

 

 肉体は、やがて朽ちるものです。しかし、神が肉体の中に吹き込んでくださったいのちの息(魂)は永遠のものです。

 

 それゆえ、やがて朽ちて塵に還る肉体の中にある魂は、永遠を思うものとして造られているようです。

 創造主であられる神御自身が、人の心に永遠を思う思いを授けておられるのです。それは、神を忘れないためです。

 

 神は、人に多くの労苦を与えられます。「神がおられるならば、こんな事が起こるはずがない。神なんていない。」と言う人もいます。

 しかし、永遠の思いを持つ人が苦しみの中で、(なぜ、人は死ぬのだろう。なぜ、生きることはこんなに苦しいのだろう。なぜ、苦しみながら生き続けるのだろう。なぜ⋯)と生き続けることの矛盾を感じて問い続けて行く中で、ある人は心を尽くして真理を求める人となります。

 神はそのような人々が神に立ち返ることを願っておられるのではないでしょうか。

 

 神は、「人の齢を百二十年としよう。」と仰せられました。肉体は、百年足らずで老いて死んで朽ちて行きますが、うちにある魂は永遠の思いを持っているのです。

 

 神のなさることは、時にかなって美しいのです。

 クリスチャンの証に、「あの時、事故に遭わなければ⋯あの時、あの苦しみを体験しなければ⋯この子が五体満足に生まれていれば⋯私はいのちの源に思いを向けることなく、いのちの声に耳を傾けることもなく、キリストに出会うことはなかった。そして、救いを知らずに死んでいたかも知れない。すべて自分の体験した良くない事も良い事も、神に立ち返り、神のみもとに帰るためであった。それゆえ、すべての労苦も、永遠のいのちを得させるための、神の恵みであったという事に気づいたのです。神に感謝します。」という証が多いです。

 

 神は、人に労苦を与えることによって、永遠の思いを持つ人が苦しみの中でその自我を破られて、「私にはどうする事もできない。」と解決を求めて確かなものを捜す人となり、本人の気づかないうちにいのちの道へと導いていく、というくすしい御計画をお持ちのようです。

 

 永遠の思いが与えられていても、自分の力でその思いを閉じ込めて無いもののようにする人もいるでしょう。

 永遠の思いを脳で捉える人は、目に見える宇宙へと思いを馳せるのかもしれません。また、自分自身の中に宇宙を見いだし神を見いだす努力をするのかもしれません。

 永遠の思いを心で捉える人は、目に見えないものの中にそれを捜すのかもしれません。そして、自分という存在をすっぽり覆う大いなるいのちの存在を意識し、いのちの主の存在を知り、真理を追い求めるのかもしれません。

 

 神は、御子によって永遠のいのちを得させるために、エデンの園から追放した人(罪人)のうちから、永遠を思う思いを取り去らないでいてくださいました。

 永遠への思いを持っているからと言って、また、キリストの御霊(永遠のいのち)を得たからと言って、人には、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができません。

 

 御霊によって神の子どもに造り変えられても、やはりそうです。私たちは、神のみわざの一部分を知っているだけなのです。

 しかし、永遠を思う思いによって、神の存在を知り、神に立ち返り、神の子どもとして新しい人に造り変えられて、喜びに満たされ、神を賛美し、神に感謝し、神に祈る者とされたことは、確かなことです。

 

 また、神に出会うために、多くの苦しみ、悲しみ、嘆きが許されたことも確かです。神は、これらの人の思いでは理解できないような十字架の道を、愛する人々の前に置いておられるのです。

 苦しみの中で、苦しみには終わりがある事を知って慰められます。死すらが慰めに思う時もあることでしょう。

 

 しかし、神は永遠のいのちを与えようと御計画しておられるのです。苦しみも嘆きも悲しみも涙もなく、喜びと感謝に満ちた平安と安息の中に導こうとしておられるのです。

 

 闇を知った者は、光の恵みをだれよりも深く悟る事でしょう。

 永遠を思う思いを与えてくださった神に感謝しましょう。