「苦しみのうちから、私は主を呼び求めた。主は、私に答えて、私を広い所に置かれた。
主は私の味方。私は恐れない。人は、私に何ができよう。
主は、私を助けてくださる私の味方。私は、私を憎む者をものともしない。(私は、私を憎む者をながめる)
主に身を避けることは、人に信頼するよりもよい。
主に身を避けることは、君主たちに信頼するよりもよい。」(詩篇118:5-9)
かつて、ユダヤ民族はエジプトの国の奴隷でした。ユダヤ人たちは、四百年もの間、苦役に苦しみました。彼らの叫び声が天に届くと、神は、約束の四百年が経った頃、レビ族のモーセを立ててエジプトの地に遣わし、奴隷の家エジプトからユダヤ民族を連れ出されました。
約六十万人の成人男子とそれぞれの家族妻や子どもや家畜などが大移動しました。エジプトの奴隷ユダヤ民族を失うことはエジプトの国力に関わることです。エジプトの王と戦車と騎兵とエジプトの全軍勢は後を追って来ました。
ユダヤ人たちの目の前は葦の海です。大水が行く手を阻みます。しかし、神はモーセに杖を差し伸ばさせて、海の真中に乾いた地を造られました。イスラエルは、海の真中にできた陸地を通って対岸に渡りました。すべてのものが渡りきると、神はモーセに仰せられました。
「あなたの手を海の上に差し伸べ、水がエジプト人とその戦車、騎兵の上に返るようにせよ。」(出エジプト14:26)
海がもとの状態に戻ると、イスラエルのあとから海の真中の乾いた地にはいったエジプトの全軍勢に水が迫り、エジプト人は海の真中に投げ込まれました。だれひとり残された者はいません。
イスラエルは海辺に死んでいるエジプト人を見ました。主は、イスラエルをエジプトの手から救われたのです。
この時、エジプトの王もエジプトの全軍勢も滅びました。強いものを失ったエジプトの大国は衰退しました。
神は、神の民を守られます。神の懲らしめの時、試練の時が満ちたならば、ただちに神は立ち上がり、神の民を縄目から解き、広い所に導かれるのです。
救い出された者は言います。
「彼らは蜂のように、私を取り囲んだ。しかし、彼らはいばらの火のように消された。確かに私は主の御名によって、彼らを断ち切ろう。
おまえ(敵)は、私をひどく押して倒そうとしたが、主が私を助けられた。
主は、私の力であり、ほめ歌である。
主は、私の救いとなられた。」(詩篇118:12-14)
神は、主の御名を呼ぶ者の苦しみを知っておられます。
神は、神の民の信頼が御自身に向けられると、また、敵の悪が満ちると、その解放のために立ち上がられます。民の心が偶像ではなく、まことの神、生ける神に向けられ、この主だけに信頼するからです。
かつて、所属していた教会で、四面楚歌のような状況を経験しました。
その教会は毎週礼拝のあとに、残る兄弟姉妹は集まって教会の昼食を食べていました。
ある時から、教会のだれもわたしと話さなくなったことに気づきました。最初は(みんな忙しいんだ。)くらいに思っていましたが、それが異常なことなのがわかって来ました。
教会の玄関で挨拶しても皆が無視。チャペルではひとりぼっち。礼拝後の昼食でも独りぼっち。私に話しかけられることを恐れているようでした。
そのうち、私はいたたまれず、礼拝が終わるとすぐに帰るようにしました。
何故だろうと思いつつも、教会に行っていました。
ある時、ほかの教会から転会して来た姉妹が私に向かって、はっきりと言ってくれました。その時、私たち二人の周りには誰もいませんでした。
久しぶりに教会の人から声をかけられました。このような状況になってから、初めての会話です。
「『牧師先生から鍵谷さんと話してはいけない。関わってはいけない。』と言われているの。(牧師の指示に従わない)鍵谷さんが悪いのよ。」と言われました。
頭の中は真っ白でした。牧師ご夫妻の指示だったことを知ると、抵抗できないものを感じ、この状況はどうにもならないと分かりました。
もうこれ以上、傷つくのは嫌です。聞く前よりも心は空虚になりました。本当に傷つきました。
神は、理由を知りたいと訴える私の祈りに答えてくださったのです。
真相がわかった事よりも、「鍵谷さんが悪いのよ。」と責める姉妹の言葉に打ちのめされました。そして、教会を去ることを決断したのです。
その傷は教会を離れた後にも、ずっと引きずっていました。牧師ご夫妻やそのほかの知人の誤解には何とか耐えていましたが、この姉妹の一言は癒えることのない傷、血が流れ続ける生傷となって残りました。この姉妹の容赦ない言葉は、私の中にあった教会に対する小さなともしびを消しました。彼女は、彼女の正義感によって言ったのでしょう。
受洗した時から知っている兄弟姉妹は、苦しんでいたのでしょう。彼らには、私への憐れみが残っていたのです。
教会を出てから、私の心はしなえていました。ある時、このままではいけないと思って、主に祈りました。
「主よ。私はあの姉妹の言葉によって深く傷ついています。本当に私が悪かったのでしょうか。私にはわかりません。教えてください。私は傷ついています。あの言葉は私を射抜いて、私には立ち上がる勇気もありません。助けてください。」
すると、神はその時の情景を見せてくださいました。
姉妹と私の二人が見えました。姉妹の頭の上には、とても貧弱で汚らしい真っ黒な羽のあるものが浮かんでいました。弓矢を持っています。悪霊だと思いました。
その黒い者は、私の心臓をめがけて矢を放ちました。私は、怖くて目を閉じました。
こわごわ目を開けてみると、矢が目に入りました。しかし、私のからだは痛くないのです。その矢の根元を見るとひとつの白い腕が私の胸辺りに伸びていて、その白い腕に矢が刺さっていました。
その白い衣の腕の持ち主を知ろうと、私はその腕を目で追いました。私の左隣に白い衣のイエスが立っておられました。
イエスは言われました。「この言葉はあなたに言ったのではないです。私(イエス)に言った言葉です。」
イエスのからだには、腕だけではなく、あちらこちらに何本も刺さっていました。
あぁ、あの言葉をイエスが受けてくださっていたのだ。私の傷をイエスご自身が受けてくださったこと、また、その矢は私自身に向けてではなく、イエスに対しての言葉であり、私はイエスご自身の傷を受けてイエスの悲しみや痛みを体験したことを知ったのです。
悪霊どもは、教会の兄弟姉妹を使い悪魔の言葉によって、神の民を傷つけているのです。
この幻によって、「私が悪い。私が悪かった。」という呪縛から解放されました。神は幻によって真相を知らせ、私の重荷を取り除いてくださいました。
今思えば、牧師ご夫妻を動かしたのも神でした。私がその教会から出て、神の導かれる先に向かうためでした。
御霊とともに歩むことを決断すると、悪霊どもが人や状況を使って攻撃してきます。神に従うことを憎む悪魔が敵となるのです。
しかし、その攻撃はキリストに向けられているのです。キリストは、私のために十字架で血を流してくださいました。今度は、私がキリストのゆえに傷つけられるのです。
私の存在はイエス・キリストのからだの一部とされ、御霊はなくてはならない相棒であると思いました。
「あなたは、私の悩みを御覧になり、わたしの魂の苦しみを知っておられました。
あなたは私を敵の手に渡さず、私の広い所に立たせてくださいました。」(詩篇31:7,8)
苦しい時に御霊が慰め、イエス・キリストの御名が私の砦となったのです。
その後、職場でも誤解や中傷にあいましたが、世の人々のすることです。教会よりは耐えられました。
度重なる試練は、私を低くし、神に逃げる者、神を頼みとする者に変えていきました。
私の中にあった正義感や自分の義が、ほかの人を鏡として現われ、私の罪として知ることもできました。そして、少しずつ主に信頼する者に変えられていきました。
今、私のうちには喜びがあり、平安があります。いつ、この平安が来たのかわかりません。しかし、平安と喜びがあるのです。
心の底から(幸せだなぁ。)と思うことが度々あります。その時は、「主よ。私は幸せです。」と主に打ち明けます。
本当に、みことばは真実だと実感しました。
神は、広い所に連れて来てくださったのです。
感謝と喜びと平安のある私がいることを、過去の私は想像もしていませんでした。希望を持つことも難しかったです。
しかし、神は、神にすがり、ひたすら神を求め、神に孤独も悲しみも嘆きも打ち明けられる私になることを御覧になっておられたのです。そして、試練の先に、広い所で神に感謝し喜んでいる私を御覧になっておられたのです。
私の不従順は不信仰ゆえである、と言われていました。
神に信頼する信仰が築かれると、こんなに広い所に立たせてくださるのだと、今、思います。
神は、その時が来るのを望んで、試練を許しておられたのですね。