高校生の時、毎日、般若心経をあげていた私です。
自分の心のうちにある醜い邪悪な存在に打ちのめされた私は、こんな惨めで恥ずかしい自分の悩みを、他人に打ち明ける事も打ち明ける人もないまま、悶々とした後に行き着いた救いの手立てでした。
まだ、般若心経をあげていなかったある日、家族のいない時に、般若心経が書かれた冊子を立てかけてある前で、すがりつくような思いで、「助けてください。私の心は憎しみでいっぱいです。自分でどうしたらよいのかわかりません。どうか、私の心が良いものとなりますように。」と祈りました。
すると、ひらめきのような感覚でパッとかけられた声、低い声で語る言葉がありました。非常に落ち着いた、しかも、威厳のある声で語られた言葉でした。
「邪念を捨てろ。無心になれ。」
邪念を捨てるとはどういうこと?無心になるにはどうしたらいいの?
思い悩んだ先が、般若心経を唱えることでした。それから、毎日「般若心経」を意味もわからないまま唱えました。
父の実家の菩提寺は禅宗の臨済宗妙心寺で、分家である父の先祖の墓地には元号「文化」の墓石が残っています。実家から徒歩5分くらいの所です。
母の実家の菩提寺は浄土真宗本願寺で、分家である母の先祖の墓地には元号「天保」の墓石が残っています。実家から車で15分くらいの所です。
我が家は仏壇のない新屋ですが、仏教とのつながりは、両親の中では自然なことでした。私が浄土真宗本願寺の大学に行くことを、母は大変喜びました。
私の実家の前は他の家の畑で、その畑地を挟んで、父の家の菩提寺があります。私の家は、お寺の裏にあったのです。
般若心経をあげる私を、何の心境の変化だろうと勘繰ることもなく、両親は黙って見守ってくれました。
浄土真宗の大学を卒業後、悩みの解決のないまま、本屋で見つけた三浦綾子さんの著書によって、その解決をキリスト教会に向けることとなったのです。
その後、私を救ってくれるのは神であって、神の御子イエス・キリストであるとはっきりと悟って、水のバプテスマを受けました。
私の悩みのもとは、私の罪であるということを、教会の姉妹に借りたアメリカ人ビリー・グラハム師の東京大会のメッセージテープを聴いた時に、はっきりとわかったからです。
私の罪の赦しと、私をがんじがらめに縛りつけていた恐れからの開放が、どんなに嬉しかったことか。目の前がパッと明るくなり、すべてのものが目に鮮やかに映りました。
水のバプテスマから一週間後、聖霊のバプテスマを受けました。
神は、私に幻を見せてくださいました。
等身大の十字架を背負ったイエスはよろけながら、群衆の間を歩いておられます。群衆は口々にイエスをののしり、罵倒しています。驚いた事に、その群衆の中に私がいて、全身に力をこめてイエスをののしり嘲っているのです。イエスを嘲る私の感情は、イエスに対する激しい怒りと憎しみでした。
打ちのめされました。十字架のみわざは、二千年前の事だと思っていました。その当時のユダヤ人たちが、イエスを十字架につけて殺したのだと思っていました。
しかし、嘲る群衆の中に私がいたのです。私は、あの時、ユダヤ人たちといっしょにイエスを嘲り、罵倒していたのです。
ユダヤ人たちが殺したと思っていたのが、実は私が、私の罪がイエスを十字架につけたのだと、事実を突きつけられました。
わたしはただ口に手を当てるだけです。そして、「ごめんなさい。イエス様を十字架につけたのは私です。神様、赦してください。」と、顔を伏せながら、振り絞って小さな声を主の御前に注ぎ出しました。
その時です。私の口の中で不思議な事が起こりました。自分の意志や力ではなく、舌が小刻みに震え出したのです。これが、異言です。まだ、「ルルル」とか「ラララ」という片言なものですが、神が賜物としてくださった「御霊」のわざでした。
聖霊のバプテスマを受けたことを、異言によって確認しました。私の口から出る異言が、神から御霊の賜物を受けたことを証したのです。
聖書学院での学びの三年間は、新しい人へと変えられる肉の私(ガンガン肉の力で生きていた私)の珍道中でした。
三学年合同の証し会(一週間の間に気づいた事、教えられた事、学んだ事などの自分自身の体験による、聖霊の取り扱いのあかしを三人くらいの人が発表する会。司会の当番の兄弟姉妹が事前に証する人を選ぶ)の証をする人によく選ばれました。
本当にハチャメチャで、いつも大笑いでした。しかし、本人の私は笑わせるつもりはなく、とにかく真剣で必死でした。
その証し会では、神を叱りつける私が発表されます。
神に気持ちを変えて懲らしめをやめてもらおうとなだめすかしたり、すねたり、それでも、懲らしめの御手を取り除けられない神に向かって、「これはいじめですよ。あなたはいじめっ子なんですか。私がこんなに嫌がっているのに。あなたは助け主ですから、助けるのが本当なのではないですか。救い主は苦しむ人を苦しみから救うから崇められるのですよ。あなた(主)が(私を)苦しませてどうするのですか。」と強気でした。
そして、ある時には、神の御手が重くのしかかり苦しむ私は、とうとう爆弾発言をしました。「そっち(神)がその気なら、えぇ~い、不良クリスチャンになってやるぅ!」大爆笑でした。不良となる人の気持ちがわかったような気がしました。
しかし、ハチャメチャな私も、神に信頼する者に造り変えられました。
預言者がいて、預言の訓練をする教会に所属していた時のことです。3~5人ずつのグループに分かれ、それぞれのグループには預言者として教会から認められた人がいて、みなで異言を語りながら、心に思い浮かぶ言葉を言っていくのです。
このようにして、御霊の預言と、自分から出た言葉とを見分ける霊的感覚を養いながら、預言の訓練をするのです。
「あなたがたは、みながかわるがわる預言できるのであって、すべての人が学ぶことができ、すべての人が勧めを受けることができるのです。
預言者たちの霊は預言者たちに服従するものなのです。それは、神が混乱の神ではなく、平和の神だからです。」(コリント第一14:31-33)
預言の訓練の時に、預言者が私に向かって預言をしてくれました。
「あなたの不従順は、不信仰が原因です。(あなたは神に不従順です)しかし、あなたが神から離れて行かないことを主は知っておられます。」
この預言は私に安堵と希望を与えてくれました。
その後、別の機会に、この預言者に対して、私にみことばが与えられたので伝えました。パウロのことばです。
「私は、他人の土台の上に建てないように、キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝えることを切に求めたのです。」(ローマ15:20)
私は、この御言葉をためらいながら伝えました。
それは、牧師の権威に従順なこの姉妹に向かって、牧師の建てた信仰の上ではなく、自分自身の信仰体験(御霊の体験)による自分の信仰の土台の上に自分の歩みを建てるようにと伝えたかったからです。
しかし、その預言者の姉妹は、みことばの後半部分をとらえて、「キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝えるのですね。」と喜んでおられました。
私は、「そっちかぁ。そっちではなくて、前半部分の『他人の土台の上に建てないように』の部分がメッセージなのに、そっちを受け取ってしまったのかぁ。」と、残念でした。
「牧師の信仰の土台にあなたの信仰を建てるのではなく、自分の信仰の土台の上に建てるように。」というメッセージを御霊によって受け取らなければ、教会批判や教会分裂の分子とも捉えかねません。それで、私は黙っていました。そして、いつか、姉妹が御霊による教会の存在を知る時が来ますようにと、心の中で祈りました。
このことを通して、同じみことばをもらっても、もらった人の捉え方によって歩む方向が変わり、神の御心に到達する人と到達できない人とに分かれると思い、見分ける力と正しく捉える感覚を御霊に求めなければならないことを知りました。
パウロは、サウロと呼ばれていた時、イエスに敵対する者でした。しかし、復活のキリストに出会って、キリストから異邦人の使徒に任命されたのです。
イエスに敵対するサウロは、ユダヤ人たちの英雄のひとりでした。イエスの弟子たちを迫害し、殺害する者たちのひとりだったのです。
しかし、サウロは御霊によって新しい人に変えられました。
キリストのしもべとなり、ナザレのイエスを「神の御子キリストである。」と宣べ伝える者となったのです。
パウロは、(殺意を持っていた)サウロを知るイエスの弟子たちから恐れられました。また、ユダヤ人たちからは殺意をもって追い回されました。
御霊によって生まれ変わったパウロは言います。
「私(パウロ)は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。(ゴールである天の御国にはいるまで、御霊に従っていのちの道を走り続けます。そして、信仰を完成するのです)空を打つような拳闘もしていません。(御霊に聞き従い信仰の勝利者となるために、戦うべき敵を見定めて戦っています)自分のからだを打ちたたいて(キリストの御霊に)従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が(信仰の)失格者になることのないためです。(天の御国の福音を語るパウロ自身が御霊〈永遠のいのち〉を失って、天の御国にはいることのできない者にならないためです)」(コリント第一9:26,27)
パウロは信仰の勝利者として世を去りました。
イエスを迫害したサウロは、自分自身を「罪人のかしら」と呼びました。「信仰者たちを迫害し殺害する罪人のかしら」のサウロは、御霊によって「信仰者の模範」のパウロに生まれ変わったのです。
パウロは、神の御前でだれをも誇らせないために、そして、(社会的な地位の)有るものを無い者のようにするために、神は、無に等しいものを選ばれることを悟りました。
「神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び(神は、ユダヤ人や祭司長たちから尊ばれないガリラヤ地方の無学な漁師たちを選んで、十字架につけられたキリストを宣べ伝えさせ、聖霊のバプテスマを授けさせ、天の御国と永遠のいのちの福音を語る使徒とし)、強い者(権力のある者や有識者や聖書の知識を持つ者)をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。」(コリント第一1:27,28)
神は、神の国の働きのために、聖書の知識のある専門家や、地位や名誉のある者や、人間の知恵や能力のある者を必要とはされません。
神は、神以外に頼みとするものを持たない低い心と、イエス・キリストを誇りとする信仰に御霊を与えて、御霊の導きに従順な者とし、信仰の勝利者(新しい人)に造り変えられるのです。
新しく生まれ変わる人は、御霊と神の御力の現われです。
どんな人も、人間の知恵に支えられず、神の力に支えられる信仰を持つことによって、御霊によって新しく生まれ永遠に輝く神の子ども(新しい人)に生まれ変わるのです。