ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

聖書の権威㉘ー山羊と毒麦ー


  イエスは、天の御国の譬えを話されました。

  「天の御国は、こういう人にたとえる事が出来ます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。

  麦が芽生え、やがて実ったとき、毒麦も現れた。それで、その家の主人のしもべ達が来て言った。

  『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』

  主人は言った。『敵がやった事です。』

  すると、しもべ達は言った。『では、私達が行ってそれを抜き集めましょうか。』

  だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦も一緒に抜き取るかもしれない。だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。

  収穫の時期になったら、わたしは刈る人達に、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦の方は、集めてわたしの倉に納めなさい、といいましょう。』」

  
  イスラエルが、奴隷の家エジプトの地から出た時に、多くの入り混じって来た外国人もイスラエルと共に上った事が記録されています。

  彼らは、モーセがイスラエルに与えた神の律法や戒めを守る、イスラエルのうちに住む在留異国人でした。


  羊と山羊はともにいました。イスラエルの羊の群れの中には、山羊もいます。

  在留異国人で奴隷だったユダヤ人が、エジプトの地で増え広がってイスラエル民族となりました。

  イスラエル民族は、エジプトの奴隷でした。イスラエル民族は、エジプト(この世)の奴隷として誕生しました。

  罪人の奴隷からエジプトの大臣になったヨセフに象徴されるように、奴隷のイスラエルは、神の民として高く上げられて、国々の王となる事が神に約束されています。

  出エジプトを記念する過越の祭りでは、イスラエルをこの世と区別してこの世の奴隷から解放し、神が与えた約束の地へ導き上らせられる神の恵みを感謝します。


  終わりの日に、すべての国々の民が、王の御前に集められます。

  王は、羊と山羊をより分け、羊をご自分の右に、山羊を左に置きます。

  そして、王は、右にいる者達にいわれます。

  「さあ、わたしの父に祝福された人達。世の初めからあなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。」

  王はまた、左にいる者達にいわれます。

  「呪われた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使い達のために用意された永遠の火に入れ。」

  
  それと同じように、キリストの教会の中には、麦も毒麦もいて、共に育っています。

  キリストの名によって集められ、御霊によって生まれる者もいれば、この世の支配者である悪魔が入らせた、この世の者もいます。

  キリストを信じる者もいれば、信じない者も混在しています。

  キリストを信じる者は、御霊によって新しく生まれる者です。

  キリストを信じない者は、この世のものです。彼らは新しく生まれる事は出来ません。

  麦は、主人である神を知り、神に喜ばれる事を求めます。

  毒麦は、主人である悪魔のわざをします。神よりも、人を求め、人に仕えさせます。

  麦は、真理を喜びます。キリストを愛し、聖なる事を慕います。

  毒麦は、真理に混ぜ物をします。キリストを愛する事が出来ません。聖なる事を蔑み、神を疑い、憎みます。

  
  教会の中には、聖書の教えと人間の教え、聖霊に動かされた人達の言葉と、人に取り入る言葉があります。

  神から出ていないものはすべて、この世に属しており、御国に入る事は出来ません。

  神のことばは、思いを神に向けます。

  人の言葉は、思いを自分と他人とこの世に向けさせます。

  人の歓心を買おうとするなら、キリストのしもべとは言えません。


  かつて神は、イスラエルに命じられました。

  「在留異国人を苦しめてはならない。虐げてはならない。あなたがたも、かつてはエジプトの国で、在留異国人であったから、在留異国人の心をあなたがた自身がよく知っているからである。」

  「あなたがたの土地の収穫を刈り入れるとき、あなたは刈る時に、畑の隅まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂も拾い集めてはならない。

  貧しい者と在留異国人のために、それらを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。」

 
  神は、刈り入れまで、毒麦も育つままにしておくようにいわれました。毒麦を抜き集める時に、麦も抜き取ってしまう事を、神は心配されています。

  教会にいる者もすべて、もとはこの世の者でした。

  世がキリストの信仰を憎んでも、教会は、世の人を受け入れ、世に愛を示す事を望んでおられるようです。

  弱い麦の信仰が無くならないように、守るためです。強い麦を見て、弱い麦は自分は駄目だと離れて行くかもしれません。

  神のわからない罪人を愛するキリストの愛を知り、信仰の弱い者が慰めを受けるのかも知れません。

  毒麦の存在は、弱い麦にとって、自分自身を励まし、自分の居場所を見つける事になるのかもしれません。

  また、教会の中にいて、良いものと悪いものとを見分ける感覚を訓練し、真に優れたものを見分ける事が出来るようになるためなのかもしれません。

  山羊と毒麦は、既に神に裁かれているのです。

  すべての事を見分けて、本当に良いものを堅く守るように、と神は願っておられます。

  キリストの使徒パウロは、言ってます。

  「真の知識とあらゆる識別力によって、キリストを愛する愛がいよいよ豊かになり、キリストの日には純真で非難されるところがなく、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現されますように。」

  イエスが命じられた、十字架のわざの記念の聖餐で、この世から救い出し、永遠の神の御国に導かれる神を覚えて、罪の奴隷から解放された恵みを主に感謝します。

  パウロは言っています。

  「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身を試し、また吟味しなさい。」