永遠の神は、父なる神と子なる神と神の霊である聖霊の三位格がおられます。
子なる神、御子が人の子となって地上に来られたのが、イエス・キリストです。
このイエスは、聖霊のバプテスマを授ける方でした。
イエスは、弟子達に、ご自分が去った後で、地上にもうひとりの助け主が来られる、といわれました。
「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべての事を教え、また、わたしがあなたがたに話したすべての事を思い起こさせて下さいます。」
「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです」ともいわれました。
イエスが十字架で死に、墓から甦られ、復活のからだで天に上られた後に、イエスのことば通りに、エルサレムでその事が起こりました。
皆が一つ所に集まって祈っていると、突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、皆が聖霊に満たされたのです。
聖霊は、真理の御霊となって、キリストのしもべのひとりひとりの内に、住まわれるのです。
この真理の御霊によって、滅びゆく闇の世にあっても、キリストのみことばの光を見て、神のことばに従う力と神の信仰と希望と愛を胸に、神の国に向けて歩むことが出来るのです。
人は、ひとりひとり神から与えられた、それぞれの賜物があります。
教会はキリストのからだです。頭であるキリストによって立てられた行き方で、それぞれが受けている賜物を用いて、互いに仕え合うように、と神は願っておられます。
皆の益となるために、各々に御霊の現れが与えられています。
御霊の賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。
奉仕や働きにもいろいろの種類がありますが、同じ主の奉仕であり、同じ神の働きです。
身体が多くの器官、多くの部分で出来ているように、キリストのからだも、それぞれの器官、それぞれの部分からなっています。
からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものです。
見栄えのしない器官は、ことさらに恰好良く見せようとします。麗しくない部分は飾って麗しくしますが、麗しい部分はそうする必要がありません。
神は劣っている部分をことさら尊んで、からだに調和を与えてくださいました。
それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの部分が互いにいたわり合うためです。
もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに悩み、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
ひとりひとりは、キリストのからだであって、各器官なのです。
皆の益となるために、おのおのに御霊の賜物が与えられています。
ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊によって知識のことばが、ある人には信仰が、ある人には同一の御霊によって癒しの賜物が、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。
神の御心のままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えておられるのです。
教える者、勧める者、助ける者、慈愛の者、癒す者、治める者など、様々な奉仕があり、使徒、預言者、教師、牧師、伝道者など、様々な働きがあります。
賜物の奉仕を理解するのに、良いたとえ話があります。
テーブルを囲んで、皆でお茶を飲んでいると、一人の人がコップを倒し、お茶がこぼれてしまいました。
助ける人は直ちに立ち上がり、ふきんを取りに行きます。慈愛の人は、「大丈夫だった?」と気遣います。教える人は、「今よそ見してて、コップが正しく置かれなかったからだね」といいます。勧める人は、「気を付けてね」といいます。預言する人は、「やるんじゃないかと思ってた」といいます。
これらは、キリストのからだであり、キリストにある家族なのです。
それぞれの賜物を用いて、互いに仕え合い、同じ御霊、同じ主、同じ神の愛の中で、キリストのからだが成長して行くのですね。
十字架のキリストと共にこの世に死んだ者は、御霊によって新しく生まれます。
御霊は、その人を神の道に導き、その人のうちに、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制という御霊の性質を形づくって下さいます。
ひとりひとりを成熟した大人へと、信仰を成長させて下さるのです。
肉の世は、自分で判断出来、独り立ちし自立する者を大人だと評価します。
神の信仰は、何事も自分で判断せず、絶えず主に聞き、主に頼り、親の腕の中で安らぐ赤子のようになる事、主と一つになる事を成熟した者と呼びます。
自分の力、自我が砕かれ、ついに、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全な大人になって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するように、と聖霊はキリストのからだを建て上げられるのです。