ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

死から救う救世主

 

 「救世主」は、世を救う主と書きます。人類を救う人と言う意味なのでしょう。キリストを信じる人は、救世主は、イエス・キリストただひとりだけだ、と言います。しかし、キリストを信じない人は、漫画やアニメや映画に出て来る主人公を思い浮かべるのかも知れません。

 

 多くの人が勘違いしています。人類は生まれる前は良い魂だったが、肉体をもってこの世に生まれると罪を犯す性質を持つようになる、と思っている人もいるでしょう。

 

 浄土真宗の親鸞聖人は、「悪人正機説」と言って阿弥陀仏の本願は悪人を救うためのものであり、悪人こそが、救済の対象だと考えます。善人は二次的な救いの対象と考えるようです。

 

 宗教に熱心な律法学者たちが、イエスの弟子たちに、「何故、あの人は取税人や罪人たちと一緒に食事をするのか」と問われた時、イエス・キリストは、こういわれました。

 「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコ2:16,17)

 

 ルカ5:31,32では、医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」とあります。

 

 仏教とキリスト教の土台の違いを見ることが出来ます。

 

 仏教は、「性善説」と言って、人間の本性は善であり、悪は物欲の心が覆うことで生じる後天的なものである、とするようです。荀子は、人間の本性は悪であり、たゆみない努力・修養によって善の状態に達することができると唱えました。性善説に対して、性悪説という考え方もあるようです。

 

 キリスト教では、人は生まれながらの罪人である、と考えます。聖書では、人は神によって造られたもの、と書かれています。神は、天体を造り、昼と夜を造り、地を造り、植物を造り、海の生き物と大空を飛ぶ鳥を造り、野の獣や家畜やはうものを造り、最後に人を造られました。神はお造りになったすべてのものをご覧になって、非常に良いと満足されたのです。その意味では、人は良いものとして造られたのです。ですから、性悪説は外されます。

 

 すべてのものは、神のことばによって造られました。神のことばは、受肉前の神のひとり子(イエス)です。人は、神のことばによって造られた被造物を管理するように命じられました。すべての被造物を管理する人を管理するのは、神のことばです。

 

 神のことばの権威に服する者として、人は神から一つの命令を与えられました。これが、神と人との秩序です。人は被造物の管理者ですが、主権を持っておられるのは神です。主権者は創造された神であり、管理者は主権者に服する者です。

 

 神の命令に従うことで、神と人の関係に調和があったのです。しかし、人が神の命令を破り、神が「食べてはならない」と言われた善悪を知る木の実を食べると、神の国の秩序が保たれず、調和が乱れました。

 

 この時、完全だった人が不完全なものになってしまいました。非常に良かったと言われた人は、狡猾な蛇に惑わされて神のことばから外れたのです。これが、全人類の罪です。

 

 仏教でいうところの、「性善説」も「性悪説」も当てはまりません。どちらも半分当たっていますが、半分間違っています。仏教では、人が出現した経緯を言い表すことが出来ません。神から出ていないからです。また、善か悪かという考えはまさに、善悪の木の実を食べた結果です。

 

 神が造られた時、非常に良いものであった人は、善悪の木の実を食べて、良いものではなくなったのです。神の言われる良いものとは、神の国で永遠に生きるものです。神の国は、神のことばで保たれています。神のことばが神の国なのです。神のことばに背くものは、神の国に留まることが出来ません。神のことばの外のものは、永遠のものではなくなるからです。

 

 聖書では、世の始まりから終わりまでを映像化できるように書かれています。アダムとエバから始まった人類が、多言語になり、他民族に分かれ、国々に分かれたことも、地球と人類の歴史と預言が記載されています。

 

 人間から出たものは、神という存在が分かりません。しかし、神から出たものは、人の成り立ちもすべてを把握しています。

 

 人が造られた時非常に良いものであったから、後天的な悪い性質や習慣を捨て、たゆみない努力や修養や鍛錬によって善なる者になる、というわけではありません。

 

 アダムが善悪の木の実を食べた時、人の霊は神から外れ、死んだ者となりました。それで、神はアダムに言っておられたのです。「それを食べたら、必ず死ぬ」と。永遠に生きるいのち(神)から外れた者は、必ず死ぬのです。

 

 エデンの園を追放されたアダムとエバの子孫は、永遠のいのちを持っていません。生まれた時から、「死」が確定しています。誰ひとり例外はありません。皆、死ぬのです。死の国に入る者として、地上に生まれたのです。

 

 人の霊は、永遠のいのちがあることを知っています。それで、それを手に入れようと探し求めて来ました。「死」が本当の姿ではない、と思う人が現れたからです。

 

 永遠のいのちを与える方がおられます。人を造られた神です。創造主の存在を認めない人間は、自分たちで創造しようとします。しかし、うまくいきません。いのちが何かもわかっていません。

 

 神は、無から有を創造されるお方です。神は、「死」から「永遠のいのち」を創造されました。神のひとり子によって、復活のいのちを造られたのです。聖霊は、復活のからだ(霊のからだ)を与えられます。神は与え、取られる方であり、取られてまた与える方なのです。

 

 永遠のいのちを切望する人間の望みを叶える方が、天から来られました。世の生きづらさから救う助けは多くあるかも知れません。死の恐怖から救い出す助けもあるかも知れません。しかし、究極の解放は、罪も咎めもない自由であり、死も恐れもない平安と愛です。

 

 しかし、「死」そのものから救い出す救世主は、神が満足される神の子羊、神の御子イエス・キリスト、ただおひとりなのです。死と恐れを取り除き、愛と平安で包んでくださるのです。

 

 イエスは、罪人を招いて悔い改めさせるために来られたのです。生まれつき罪人であっても、イエス・キリストによって、永遠のいのちを受け取ることができるのです。

 

 自分は正しいと思っている偽善者に、この救いは受け取れません。自分は罪人だ、死んで当然の者だ、と思っている人を招かれるのです。イエスは、罪人を救うために来られたのです。