ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

イエス・キリストの愛

 

  自分をそのまま受け入れ、己のように愛し、助けるために奔走してくれる人への恩義は、測り知れません。どうしてこの人は、自分をこんなに気遣ってくれるのか。親でもなければ身内でもない、赤の他人の自分に良くしてくれるのか。

 

  人は、このような人を慕い、心で繋がります。その人が困った時には、全力で力になりたい、と思います。命の恩人と思う人に、自分の命で返したい、と思う人もいるでしょう。

 

  神のひとり子は、神とともに喜びのうちに人を造られました。人は、御子の喜びでした。御子の楽しみでした。神は人を、御子に敵対する悪魔から守るために、悪魔との関わりを持たないようにと、善悪の木の実を食べることを禁じました。

 

  しかし、神のことばを守らず、善悪の木の実を食べた人は、悪魔に捕らえられました。人は悪魔に捕まり、悪魔の支配下に入れられました。悪魔の支配から抜け出せません。

 

  神は、神に反逆し敵対する悪魔を裁き、悪魔を滅ぼす永遠の火の池を造られました。しかし、悪魔の勢力を火の池に投げ込むと、悪魔の支配下にいるすべての者も一緒に入ってしまいます。彼らは、悪魔に繋がれているからです。

 

  御子は、被造物すべての主人です。神とともに創造された神のことばなのです。人は、神のことばを軽んじ、蛇(悪魔)の言葉を信じて善悪の木の実を食べ、悪魔の手下となってしまいました。

 

  神は、被造物すべての主人、人の主人である御子を、悪魔の呪いである善悪の木の実の呪いから人を解放するために、御子に肉体を造り人の子として、地に遣わされました。

 

  神の善は神のことばです。神の御国は神のことばの世界です。神のことば以外のものは、神の御国に存在しません。神のことば以外のものは、不義であり、神の御国に入ることは出来ません。義なる神は、罪を犯した不義の人を裁かなければなりません。悪魔を裁いて、人を裁かないという二つの量りを持つお方ではありません。神は全き義である方なのです。

 

  神は義しい裁きをするために、人を悪魔の支配から救い出し、不義を取り除こうと計画されました。不義である人を、義なる人とするために、不義を取り除く生贄の子羊の血を求められました。人を救うために、その身代わりとなる血を要求されたのです。それは、罪の無い、しみも傷もしわもない全き聖である子羊でなければなりません。

 

  神は、御自身のひとり子を人の子イエスに創造し、十字架で人の罪を贖う生贄の神の子羊として地に遣わされたのです。

 

  イエスは、人の罪を贖い、罪を赦し、永遠のいのちを与えて、御霊による新しい創造をされるキリストです。

 

  イエスは、キリスト(世から救い出し神の御国へ導く、天から遣わされた救い主)でした。キリストは、水と血と御霊のしるしを持つ、神に油注がれ神の権威を帯びた人です。

 

  イエスが、バプテスマのヨハネからバプテスマを受け水から上がられると、天から御霊が鳩のように下って来て、イエスの上に留まられました。これは、イエスが神が遣わされた神の子羊であるしるしでした。水によるしるしです。

 

  血を流した子羊イエスが十字架上で息を引き取られると、神殿の幕が飢えから下まで真っ二つに裂け、地が揺れ動き、岩が裂け、墓が開きました。これは、イエスが神が遣わされた贖いの神の子羊、神の御子であるしるしでした。血によるしるしです。

 

  イエスが墓から復活すると、眠っていた多くの聖徒達のからだが生き返って、墓から出て来て、エルサレムに入って多くの人に現れました。

 

  イエスが復活の後昇天されると、地上のイエスの弟子達に聖霊が注がれました。イエスが聖霊のバプテスマを授ける神の権威者であり、裁き主である方、神が油注がれたキリストであるしるしでした。御霊によるしるしです。

 

  イエスは、人を造られた神のひとり子が人の子となられた姿だったのです。イエスは、神に油注がれたキリストでした。

 

  人は、神のことば(神の御子)を軽んじ、神の御子に敵対する悪魔の言葉に従った裏切り者です。御子の敵の言葉を慕い、御子の御名を汚し、神に従わず神に恥を与えた不義の者です。

 

  人は、神が人の不義を赦すために天から遣わした神の子羊イエスをも辱めました。イエスを神が遣わした神の御子であることを認めず、蔑みました。イエスが語る神のことばを憎みました。

 

  人は神の御子に逆らい続けたのです。人は、御子を憎む者でした。神のことばを欺く者でした。人は、神の御子に対して立ち逆らう、悪魔の奴隷、悪魔の子でした。良い者ではありません。悪い者でした。

 

  しかし、神の御子イエスは、そんな彼らのために、彼らの罪の生贄となって、十字架で血を流されたのです。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは自分で何をしているのかわからないのです。」と父に叫び、ご自分を十字架にかけた罪人の罪を赦してください、と執り成したのです。

 

  ご自分の命を憎み、蔑みと嘲りに満ちた言葉を投げかけ罵る者達のために、イエスはご自分の命を差し出されました。自分を愛した人々のために身代わったのではありません。自分を憎み罵る者達のために、「この罪深い不義の者達の罪を赦してください」と父に懇願して、身代わったのです。

 

  イエスは、自分を憎み嘲りののしる人々の殺意によって、罪人の緋のように赤い罪によって、死なれたのです。

 

  イエスは、自分を愛してくれる者のために死なれたのではなく、自分を憎み、反逆し敵対する者達のために死なれたのです。人の子イエスは、神の御子だからです。

 

  神は、人が良い者であるから愛しておられるのではありません。イエスは、燃えるような罪の中にいる汚れに満ちた魂のために命を捨て、彼らにいのちを与えられたのです。

 

  それで、闇の眠りから覚めた者達は、主イエスを見るのです。「主」とは、神の神、王の王、すべてのものの上に立つ方、魂の所有者、命の主人、いのちの主なのです。

 

  イエス・キリストの愛は、輪を描いて回る炎の剣に自らの肉体で入り、肉を破り、血を流し、いのちの木への道を開かれました。

 

  神の子羊イエスの血を受ける者は、罪赦され、聖められた者。燃える緋のような赤い罪を雪よりも白くして、聖として下さるのです。

 

  イエスの血で聖い者とされた人は、いのちの木への道を歩くことが許されます。アダムの罪で閉じられていたいのちの道は、イエスの十字架の死と復活によって、聖とされた者の前に開かれたのです。

 

  人間が何者だというので、これを御心に留められるのでしょう。人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。

 

  イエス・キリストの愛は、神の愛なのです。

  人を造られた神は、愛なのです。

  神は愛なり。愛は神御自身です。

  イエス・キリストの愛のうちに、永遠の安息があるのです。

 

 

    著作本 『人はどこから来てどこへ行くのか』鍵谷著 (青い表紙の本)

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