ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

主よ 私はどうしたらよいのでしょうか

 

 ペテロはイスラエルの人々に語りました。

 「イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主(人を裁く主権者)ともキリスト(救世主)ともされたこのイエス(死から甦り天に引き上げられた神のひとり子)を、あなたがた(ユダヤ人たち)は(神に逆らう罪人として)十字架につけたのです。」(使徒2:36)

 

 ユダヤ人たちは、神の子であると自称するナザレのイエスを、聖なる神を汚す者として憎みました。

 神のもとから来られたイエスは、神のことばを話し、神の栄光を現わされました。霊の目が塞がれた不信仰なユダヤ人たちには、神の栄光として見ることができませんでした。神のことは、信仰によらなければ、見ることも聞くこともできないのです。

 

 同じようにイエスを見ていても、イエスに神の栄光を見る信仰の人もいれば、イエスが神を汚す者であると見る不信仰の人もいます。

 同じように、イエスのことばを聞いていても、イエスのことばによって神を知る人々もいれば、神のメッセージを受け取れない人々もいます。

 

 自分を主として生きる人々は、実際のところ、自分以外の主人を必要としていないのです。自分の人生にもうひとりの主人を迎えて、自分の人生が自分の思い通りでなくなることを嫌います。

 

 救い主を求めながら、自分の人生の歩みを助ける良いパートナーであってほしいと願うのです。あくまでも、主人は自分自身なのです。

 

 しかし、本当に救いを求めている人々はそうではありません。救われたいのです。罪が赦されて、自分の中に何も咎めるものがなく、恐れからの解放と自由を味わいたいのです。だれも奪うことのない平安を、心に持っていたいのです。喜んでいたいのです。

 

 ペテロのことばを聞いたユダヤ人たちは、自分たちが十字架につけたナザレのイエスは、イスラエルの神がユダヤ人の救いのために遣わされたキリストであったことを悟りました。自分たちは、神が遣わされたキリストを信じないばかりか、十字架につけて殺してしまったのです。

 

 「人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、『兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。』と言った。

 そこでペテロは彼らに答えた。

 『悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。

 なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。』(使徒2:37-39)

 

 イエス・キリストは、ご自分を憎み、十字架につけた人々を赦す用意があります。人は、悔い改めるならば、罪の方向から向きを変えて、罪が赦される方向に新しい一歩を踏み出すことができるのです。

 

 そして、それぞれ罪を赦していただくために、神が天から遣わされた救世主であるイエス・キリストの名によって、罪を告白し神に立ち返る水のバプテスマを受け、心が神に明け渡されるならば、賜物として、聖霊を受けるとペテロは言いました。

 

 罪を離れ、御救いの道を歩む決断を表明するバプテスマには、神の証印として、聖霊を受けると言われました。この約束は、ユダヤ人だけではありません。どの世代の人にも、また、遠くにいる人々にも、ユダヤ人でなくても主がお召しになる人々(神が救いにお定めになっている人々)にも与えられているのです。

 

 御救いを受けるためにはどうしたらよいでしょうか。

 悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、救世主であるイエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。

 

 バプテスマとは、浸かることです。単なる告白ではありません。神の中にはいり込むことです。神の御支配に身をゆだねるのです。

 

 サウロは、イエスの教えを迫害し、殺意をもってイエスの弟子たちを縛って牢に投じ、また、彼らを処罰するためにエルサレムに連行しました。

 ところが、旅を続けていると、突然、天からまばゆい光がサウロの回りを照らし、地に倒れました。

 

 「サウロは地に倒れ、『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。』という声を聞きました。

 そこでサウロが答えて、『主よ。あなたはどなたですか。』と言うと、その方は、『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスだ。』と言われました。」(使徒22:7-8)

 

 律法に逆らわせようとするイエスの教えを憎み、イエスの弟子たちを迫害することは、律法について厳格な教育を受け、神に熱心なサウロにとって、大義でした。律法に厳格なサウロは、神の側に立つ者でした。

 サウロは、神のための奉仕であると固く信じて、迷いも疑いもありません。しかし、今、天からのまばゆい光の中で語りかける声は言うのです。

 

 「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」

 光の中で現われた声の主が神からのものであることをサウロは知っていました。それで、サウロはその声の主に尋ねました。

 「主よ。あなたはどなたですか。」

 

 すると、その方は、こう答えられたのです。

 「わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスだ。」

 

 ナザレのイエスは、神を冒瀆した罪で十字架につけられて処刑されました。聖なるイスラエルから取り除かれた極悪人(聖なる神とイスラエルを汚す、赦されない罪人)です。死が確認されて十字架から降ろされると、墓に納められました。

 しかし、その後、イエスの弟子たちが、イエスは墓から甦られたと偽りの証言をして、ユダヤ人たちを惑わしています。イスラエルを惑わすのはあの騙す男ナザレのイエスだけではありませんでした。イエスは墓に納められたのに、イエスが墓から甦ったと言って、イエスの弟子たちがイスラエルを不安に陥れているのです。

 

 大祭司たちの采配により、イエスのからだは弟子たちに盗まれた、と祭司たちに伝わっていました。甦った風に見せるために弟子たちは、イエスのからだを墓の中からどこかへ持ち運び、甦ったと言いふらしているだけだ、としていたのです。

 

 しかし、甦られたイエスを見たイエスの弟子たちは、復活のイエスを証言し、ナザレのイエスは死から甦ったキリストであると言い広めていたのです。

 

 祭司たちの側にいたサウロは、イエスの弟子たちの偽りの証言を憎んでいました。

 しかし、今、サウロは、自分自身でイエスの声を聞き、また、サウロが「主」と告白した声の主が、ナザレのイエスであることを知ったのです。

 

 ナザレのイエスが本当に死から甦られた事、また、十字架で血を流されたイエスが、世の罪を取り除く神の子羊キリストである事を、はっきりとサウロは悟ったのです。

 

 サウロは声の主、ナザレのイエスに尋ねました。

 「主よ。私はどうしたらよいのでしょうか。」(使徒22:10)

 

 すると、主はサウロに言われました。

 「起きて、ダマスコに行きなさい。あなたがするように決められていることはみな、そこで告げられる。」(使徒22:10)

 

 神に出会い、自分のあやまちに気づいた時、ユダヤ人たちも、サウロも、「私はどうしたらよいのでしょうか。」と尋ねました。

 

 すると、どうしたらよいのかを告げられました。

 その御告げを聞いた彼らは、悔い改め、神に立ち返り、神に従ったのです。

 

 自分の罪に耐えきれず、自害したイスカリオテのユダのようではありません。

 罪を赦してくださる神に自分の罪を言い表わし、その身をゆだねたのです。救いを求める者はあきらめません。自分で始末をつけようとはしません。

 

 救ってくださる方に、救いを求めました。自分のあやまちを認め、悔い改め、赦しを請いました。

 

 解決は、自分の中にではなく、裁き主の権威を持つキリストの名の中にあったのです。

 神に立ち返る者に、神は、罪が赦された者であるという証印としての聖霊を与える用意があります。

 

 聖霊を受けるならば、真理の御霊が道を教えてくださるのです。