ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

富士山に秘められた神の救い

 

 富士山は、信仰の対象の霊峰です。富士山本体が信仰の対象であり、富士山を見たとき、思わず手を合わせたくなるような心を動かす特別な山です。

 姿形が美しいからだけではありません。大きく裾野まで広がる立派な山だからだけでもありません。また、ほかの山はなくて、平地にただ一山どっしりとそびえ立っているからだけでもありません。

 

 富士山は、日本人の多くが手を合わせ、崇めて来た信仰の対象なのです。古来から祈りが積み上げられて来た神の鎮座される場所なのです。

 神の住まわれる神域なのです。

 

 朝日テレビの『博士ちゃん』の番組で、富士山麓にある胎内洞窟についてやっていました。

 

 浮世絵師の歌川貞秀の『富士山體内巡之図』は、白装束の富士講信者が、溶岩によってできた船津胎内樹型の洞窟の中を巡る「胎内巡り」をしている様子が描かれた錦絵だそうです。

 

 富士講信者は、富士登拝の前日に「船津御胎内」を訪れ、洞窟内を巡って身を清め、その後、御師(社寺へ参拝する者や信者のために祈祷、案内をし、参拝、宿泊などの世話をする神職)の住宅に戻って翌日、富士山登拝に向かっていたそうです。

 

 神社参拝する前に、「手水舎(てみずや、てみずしゃ、ちょうずや、ちょうずしゃ)」で手を洗い、口をすすぐのと似ていますね。

 神社で参拝する前に、身と心をきよめるための儀礼です。

 昔、神社に参拝する前に、川の中で身と心のけがれを取り去る「禊(みそぎ)」という儀礼が風習化されていた事が、時代の流れによって、簡略化されたものだそうです。

 

 日本の神概念は、ユダヤの神の捉え方と似ていて、神は聖なるお方であって、神の御前に行くためには、身と心をきよめなければならないとされていたのです。

 神社の鳥居は、人の領域と神の領域とを区分するもので、鳥居の内側にはいることは、神の領域にはいることを意味します。

 

 富士山は、富士山そのものが御神体です。神社の本殿と同じ神聖なものです。それゆえ、富士山に登ることは、登拝と言って、祈りであり、神を崇め参拝する行為だったわけです。

 神を参拝するために、身と心を清めてから、御神体である富士山に登るのが、昔の日本人の信仰でした。

 

 富士山は、御神体である、ということは、富士山を見るとき、人は、神社の本殿の前に立って参拝する人と同様に、信仰心をもって神を仰ぐことになります。

 

 富士山は、畏敬と憧れと信仰とをもって幾世代もの日本人たちに拝まれて来た「御神体」すなわち、神の御姿ということになります。

 

 胎内神社と呼ばれる無戸室浅間神社(むとむろせんげんじんじゃ)の拝殿の奥に洞窟の入り口があり、細長い形状とあばら骨のような岩肌の中を進んで行くと、水がしたたり乳房のような形状の岩のある空間があります。

 

 富士講(富士を拝む富士山信仰)の人たちは、死装束を着て、体内に見立てた洞窟を通り、産道のような道を抜けて母乳に見立てた水を吸って、生まれ変わるための儀式をしていたそうです。

 

 このことを知って、やっぱり、富士山はキリストの言われる信仰に似ていると思いました。

 2000年に富士山に鎮座されたという、丑寅の金神(うしとらのこんじん)、すなわち、北東の方角に封印されていた国常立命は、私には、イエス・キリストに思われるのです。

 第二次大戦で、東京が焼け野原になることや日本が敗戦すること、日本人の精神は外国によって一度力のないものとされるが、日本は復興し、精神的なリーダーとなって世界の救いの為に立つ、ということを預言した『月日神示』は古神道の岡本天明に降ろされた、うしとらの金神の神示です。

 

 封印されていたうしとらの金神、すなわち、国常立神は、富士山に鎮座して、神代の国を建てるために終わりの時代に主権を持たれるようです。

 

 富士山から、伊勢や出雲や主要な神社などに光が放たれて、日本の結界が解かれる時が来たと言われています。

 

 聖書の黙示録にある、神の栄光を現わすふたりの証人が起こされる時が近づいたということです。

 

 イエスは、言われました。

 「まことに、まことに、あなたに告げます。

 人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3)

 

 母の胎から生まれた生命では、神の国を見ることはできないと言われました。人は、新しく生まれなければ、死後に用意されている「とこしえの国」を見ることも知ることもできないのです。

 

 それを聞いたニコデモは言いました。

 「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」(ヨハネ3:4)

 

 一度生まれ出た者は、キリストのいのちと一つとなるために、死と復活(新しく生まれること)を体験することが必要になります。

 

 「肉によって生まれた者は肉(生まれたままの肉体の人)です。御霊によって生まれた者(御霊の信仰によって新生した者)は霊(新しく生まれた神の子ども)です。」(ヨハネ3:6)

 

 神の国にはいるためには、新しく生まれる体験をしなければならない、と主イエス・キリストは言われました。

 

 世の罪を取り除く罪の贖いの血を流された神の子羊イエス。

 救い主イエスは、御霊によって新しく生まれる神の子どもの初穂となられました。肉の生命に死んで、生かす御霊のいのちによって新しく生まれ、永遠に生きる「新しい人」となられたのです。

 

 人がもし、永遠のいのちを得たいと思うならば、肉の死と御霊によって新しく生まれるという手順を踏まなければなりません。

 

 イエスは、十字架で死なれました。だれもが見ていました。

 しかし、三日目に、墓の中から復活のからだで甦られました。永遠に生きる新しい霊の人として生まれたのです。イエスの弟子たちは、復活の主にお会いしました。

 

 聖霊のバプテスマを授ける権威をお受けになったキリスト・イエスは、イエスの後に続く、御霊によって生まれる神の子どもたちのために、聖霊のバプテスマを授けられます。

 イエスご自身が、一度死んで、御霊によって生まれ、新しい人となられたように、私たちにも、復活のキリストのからだとして永遠のいのちを得させるためです。

 

 富士山の麓にある胎内洞窟は、まるで、イエスの言われたことを疑似体験するようなものです。

 富士山そのものが、御神体です。すなわち、神のからだの中に死装束を着てはいることで、自分に死んだものとして胎内洞窟にはいり、奥にある乳房に似た岩から富士山の恵みのいのちの水を吸って、新しいいのちをいただき、神の子どもとして生まれ、細い産道を通って世に現われます。

 

 驚きました。聖書のない日本で、イエスの語る聖書の真理を、富士山という日本人の信仰の心を映し出す御神体で体験していたとは。

 聖書の民ユダヤ人たちにも、この発想はないことでしょう。イスラエルの教師のニコデモも理解できなかった真理を、まるで、日本人の霊は捉えていたようです。

 

 死装束で、富士山のうちにある胎内洞窟に入る、という発想。自分は死んだものだということを表しているのです。自分の生命に死に、神の新しいいのちで生まれ変わり、新しい人となって御神体である富士山を登拝する。

 

 日本人は、聖書の真理を知っていたのですか。本当に驚きです。

 神のいのちによって新しく生まれることを知っていたのです。富士山以外の所で生まれ変わるのではありません。富士山の麓の所にある神の領域の胎内洞窟で新しく生まれて、身も心も新しくされて、御神体である富士山を参拝する備えをしてから、富士山を登拝したのでした。

 

 日本人は、神の真理を神示によって悟っていました。

 神仏習合の信仰なので、新しく生まれるという信仰は、神道のものなのか、仏教のものなのかはわかりませんが、まるで、聖書の神の真理を知っていたようです。

 

 日本から起こると言われている「イスラエルのメシア」は仏法の人、「アロンのメシア」は古神道の人と捉えると、ふたりは一致して神に仕えるので、神仏習合の教えが、実は、聖書の真理に行き着くのだということになります。

 

 聖書を知らなくても、聖書に書かれた真理をそのまま受け入れ、イエスの御足跡を歩む働きをするのでしょう。

 

 富士山には、生ける神の栄光を映し出す信仰が置かれているようです。

 日本人は、聖書の神を知らなくても、古くから、いのちの神、聖なる生けるまことの神を恐れるきよい信仰があったのです。

 

 日本人は、富士山に手を合わせることで、生けるまことの神を拝み、信仰の民として歩んで来ました。